自衛隊明記だけの改憲は困難、ならばどうするか
東洋学園大学名誉教授 元陸上幕僚長
冨澤 暉 氏

一 昨年の自民党総裁選で明らかになったこと

昨年9月21日の自民党総裁選で安倍晋三氏が当選した。当時、その勝利の原因をマスコミは色々に評していたが、議論が大きく分かれるような困難な問題は先送りして、ゆっくりと事を進めていこうとする安倍氏の手堅さを自民党員たちが買った、ということなのだろう。

実は自民党員ではない私自身も、その安倍総理の安定性、特にこの大激動の世界情勢の中で、諸外国との外交について長期政権維持者としてそれなりの実績を挙げていることについて高く評価しており、国民の多くも「これからの3年間を任せられるのは安倍さんしかいない」と考えての結果だったのだろうと納得したものだった。

無論、トランプ、金正恩、文在寅、プーチン、習近平等々、当然ながらの「自国ファースト」を高唱する政治家達が強く自己主張してせめぎあう外交場裡で、相も変わらず他力本願の安倍総理に不安がないわけではないが、日本国民の大多数が改革・革新を嫌い、「難関突破」を避けつつ「不変・安定(先送り)」しか道がないと考えたのは、安倍続投反対側による「難関突破」のための斬新な提案もこれに支払うべき対価の提示もなかったこともあって、当然の成り行きだったと考える。

 

そういった問題を含んだこの総裁選挙で、安倍総裁が提言した「憲法9条2項を残した自衛隊明記のみの改憲」と石破氏の「9条2項を削除して国防軍明記の改憲」だけが私どもにとって分かり易い争点だったのだが、「安倍氏の圧勝、石破氏の善戦」というマスコミの評価によってその何れもが消え去ってしまった。

期待された憲法改正については、第1に、自民党の中に安倍改憲案反対の意見が結構あるということが明白になり、第2に、総裁選後、首相が公明党との事前協議に意欲を示したのに対し、山口那津男公明党代表が「衆参の憲法審査会で各党の理解を得ながら進めていくのが基本だ」と従来の考え方を変えなかったことから、具体的な動きのないまま今日に至っている。

一方、石破議員は、自らも苦労した自民党改憲草案、就中緊急事態法の議論優先を主張したのだが、総裁選の敗北でこの改憲も当分の間、陽の目を浴びることはなくなったということである。

 

二 「自衛隊は憲法違反」はすでに解決済み

私たち自衛官OBたちは、現職時代に「我々は国家公務員であり、憲法を尊重し擁護する義務を負うので、憲法の不備を云々してはいけない」と教えられ、そう務めてきたのだが、訓練・実務の現場のみならず、家庭・社会生活の中までも多くの矛盾を抱え、それに耐えて来た。

それらの中で一番辛かったことは、「この国の平和と独立を守る」ということが我々の任務であるにもかかわらず、主権者たる国民から「自衛隊は憲法違反であり不要の存在だ」と言われることであった。 私どもが若かった1960年から70年代の自衛隊の悩みの第1は、まさにこの問題であった。

私どもは「愛される自衛隊」を標榜し、小・中学校、公民館等の敷地造成を行って市町村行政に協力するとともに、果樹の手入れ、田植え、稲刈り等の「援農作業」を行い、災害派遣で懸命の救助・支援活動に参加した。

また、当時非力であった警察活動を助けるべく、実際の出動はなかったものの、警察官職務執行法準用の治安行動訓練を「これが我々の仕事か」と考えつつ実施したこともある。あの頃の政治家が「せめて自衛隊の名を憲法に明記しよう」と言ってくれていたら、当時の我々も感激したかもしれない。

 

しかし、今回の安倍総裁提言の問題は、既に24年前の1994年に解決済みのものだと私は考えている。

その年の自衛隊観閲式の観閲官は村山富市総理であった。彼はすでに7月の国会所信演説で「自衛隊合憲、日米安保堅持」を述べてはいたが、この日、自衛隊の最高指揮官として、事務次官、統合幕僚会議議長、陸海空幕僚長以下多くの自衛隊員達の前で「自衛隊は憲法に違反するものではない」と明言したのである。

観閲式が11時過ぎに終わったので、私(当時陸幕長)は村山総理を朝霞駐屯地にご案内して部下たちと「総理をかこむ昼食会」を実施した。食事の準備が整うまでの間、暫しの休憩時間があり、その間、総理も私も晴れてきた秋の空を見るべく開けられた窓辺に立った。

その時、総理が問わず語りに、はっきりした声で「今日のわしの言葉を一番喜んでいるのは社会党の仲間たちなんじゃ」と言った。これを聞いた時、私は「この問題はようやく終わった」と思った。

無論その後も土井たか子氏や何人かの憲法学者達が相変わらずの自衛隊違憲論を言っていたのは知っていたが、当時でも60~70%あった自衛隊支持率は今や90%を超えた。土井たか子氏も憲法学徒であったらしいが、憲法解釈上、自衛隊を絶対に認められないという人々は、これからも何%かは必ず残るのであろう。

 

三 外国人に理解されない「自衛隊」という名称

悩みの第2は、「自衛隊という名称が外国人には理解されない」という問題だった。

米国の小中学校・高校・大学に入ったことのある経験者は、現地の友達たちから「自衛隊は軍隊とどう違うの、それにしてもおかしな名称ね」と言われるらしい。

日本・中国・ドイツ・ロシアでは、国際法上の「自衛」と刑法上の「正当防衛」という言葉が分かれているが、英・米・仏・スペインなどでは「自衛」という一つの言葉で表現する。

それらの国の一般の人々は国際法などを知らないから、自衛隊(Self Defense Force)というと、正当防衛隊か護身隊と受け取るらしい(ちなみに空手やボクシングなどの護身術をArt of Self Defenseという)。

軍隊というものは「国を護る」とか「国際秩序(平和)を護る」はずのものなのに、「自分の身を護る部隊」というのはとても理解できない、ということで嗤われるらしい。

そのように嗤われ、腹を立て米国留学から帰国後、自衛隊を退職した先輩の話を拙著『軍事のリアル』第3章に書いたが、その先輩の体験は個人のみならず、多くの駐在武官たちの体験であったと聞く。私自身は海外に長期滞在したことがないので、そういう体験をあまり持たないのだが、同じような言葉の乖離を米人との間で体験したことはある。

 

ハワイの太平洋陸軍司令部に在ハワイ・アラスカ・米本土の師団長などが集まった時、その師団長たちと議論をしたことがある。「何故、自衛隊は日本国土以外で我々とともに戦わないのか」と聞かれ「それは日本の憲法で集団的自衛権行使が認められていないからだ」と答えると、「集団的自衛権」行使と言わずに「共同防衛」(Cooperative―Defense)または「集団的防衛」(Collective―Defense)と言えば良いじゃないか」と彼らに言われた。

その時にはその意味が分からなかったが、帰国して調べてみると彼らが慣れ親しんだNATO条約には、根拠法規として国連憲章第51条の「個別的・集団的自衛権」という言葉が確かにあるものの、「集団的自衛」という行動の用語はなく、あるのは「共同防衛」と「集団的防衛」の2語のみであった。

またこれは近年のことだが、元米国外交官であった日本語の上手いケヴィン・メア氏の講演を聞いた時、盛んに「集団的自衛権」のことを言うので「貴方が今強調した集団的自衛権というのは、実は集団安全保障措置のことではないか」と聞くと、「その通りだが、あなた方日本人が全てを集団的自衛権というのでそう言っただけだ」と切り返された。20年以上も前だったろうか、カート・キャンベルという若手学者が日本の新聞に「日本人10人に集団的自衛権のことを聞くと10通りの違った回答が返ってくる」と皮肉っぽく書いていたのを思い出した。

 

要するに、我々自衛隊のOBたちは、日本国民からの理解は何とか得られるようになったものの、その奇妙な名称のために外国人、特に外国軍人から信頼する仲間として認知されないことを嘆いているのである。 職業人であるならば、国内と同様に世界からも認めて欲しいというのは当然の要求だが、それ以上に「外国人たちに認められない軍事力」は、その大目的である「平和外交の支えとしての役割を果たせない」という点が問題なのである。

そのためには、何よりも嗤われる「自衛隊」という名称は変えてほしいのである。憲法でその名称をこれからまた70年も固定されてはたまらない。今はその名が憲法にないことがむしろ救いと言える。国民によく説明して、「世界各国並みの国防軍」とするのなら「自衛隊法」を「国防軍法」に、「軍がどうしても駄目で防衛隊なら良い」というのなら「自衛隊法」を「防衛隊法」に変更すれば良い。ともかくSELF(自)だけは外して欲しいのである。

 

四 ならば、どうするか~安全保障は国際問題、ならば国際法で憲法の解釈を~

会社勤務時代にある先輩と憲法改正について議論し、「①日本国憲法は英米法で出来ているので成文を替えずに解釈を判例(事例)によって変えてえていけば良い、②ドイツの基本法は大陸法でできているので『憲法は変遷する』という言葉に従い、アデナウアー以降60回も改正されている」と言ったら、「日本国憲法は英米法である、などという学説が日本にあるのか」と聞かれた。

「私が防衛研修所で教えられた西岡朗部長と大場昭図書館長らが、その共箸書『自衛権再考』で言っており、大場先生には『国際法』とか『英米法』といった論文もある」とお答えしたら、「その程度のものは学説とは言わないのだ」と軽くあしらわれた。

一方、商社出身のある財界人は「我々の仕事では英米法的契約が多くあります。成文法を根拠としないが、過去の例に従い立派な契約書を作ってきます。但し公明正大性(フェアネス)ということに関しては厳しいものがあります。日本の憲法は米国が作ったものですからやはり英米法なのでしょうね」と言っていた。

私は法学者ではないので、この論議に加わる資格はない。しかし考えて見ると、国際安全保障に関わる軍事の間題は、言うまでもなく国際法上の問題であって、決して各国固有の憲法の問題ではない。ならば、軍事の問題は日本国憲法で考えるよりも世間(世界)並みに、国際法・国際条約・国際慣例に従って考えるべきなのではないか。

 

現日本国憲法でも第98条2項には「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と明記している。そして自衛権のことも集団安全保障のことも日本国憲法には全く書かれていないが、これらは国連憲章に明確に書かれている。

元々国連憲章は集団安全保障についての国際基本法であり、そこでは「集団(的)安全保障とは、戦争を放棄し、連合国によって①話し合いをし、②必要に応じ経済制裁をし、③それでも駄目な場合には連合国としての武力制裁により、平和を維持することであり、④すべての加盟国はこの憲章に従って負っている義務を誠実に履行しなければならない」とし、更に「自衛権は、集団安全保障が成立しない場合においてのみ各国に与えられる権利である」としている。

そして日本については、1951年サンフランシスコにおける勝者連合47カ国との間で結ばれた「日本国との平和条約」において、「日本が主権国として国連憲章第51条に掲げる個別的自衛権または集団的自衛権を有すること、日本が集団(的)安全保障取り決めを自発的に締結できること(第5条C)」が公式に承認されている。

だから締結した国際法によって判断すれば、日本が集団(的)安全保障に参加することも、それが機能しない場合に自衛権を行使できることも当然であり、日本国憲法そのものには集団的自衛権行使や集団安全保障措置への参加を否定するものは何もないのである。

 

五 国民も理解する「国際法重視の憲法解釈」~憲法9条の部分的改正は無意味~

残る間題は「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と「國の交戦権はこれを認めない」という憲法9条2項の二つの文言である。「前の文言は要するに1項に関わる戦力のことであり、集団安全保障措置や自衛のための戦力ではない」と解釈すれば解決できるものである。

また、交戦権(right of belligerency)という言葉は、国際関係法辞典にもなく世界のどこの公用語としても使われていない言葉である。敢えて解釈すれば「交戦中の権利」とでも読むのだろうか。いずれにせよ「交戦する権利」であると明言する学者はいない。篠田英朗東京外大教授は「完全な間違い用語だから無視すればよい」と言っている。

 

このような状況で、日本国憲法9条を部分的に改正することは困難であり無意味である。ならば、締結した国際法にのっとり、現世界情勢に応じ具体的になすべきことを国民に説得し、その了解のもとに現憲法を解釈し直していくしかない。

憲法解釈変更を忌み嫌う人々がいるが、日本は既に「個別的自衛権もない」から「個別的自衛権はある」と変更し、更に「限定的集団的自衛権行使は可」と解釈を変えた。それが英米法的であるかどうかは別として、国民は意外にも「国際法重視の憲法解釈」を理解するのではないか。

「日本ファースト」は当然だが、これまでのような「一国平和主義」はあり得ない。「世界平和の中にのみ、日本平和が存在する」と知るべきである。

 

(自衛隊家族会「おやばと」転載 平成31年4月15日)