「憲法9条の改正と自衛隊」
衆議院議員 元防衛大臣
中谷 元

 

今、自民党の中では、「憲法9条をいったいどうするのか」という課題が今年の最大の政治テーマになっています。「憲法9条は改正しなければならない」ということは、もう皆さまに改めて説明する必要はないと思います。
まず9条全文を紹介します。「一 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

 

 

憲法9条の原点

 

憲法9条の原点はポツダム宣言にあります。日本降伏後の占領政策、「無条件降伏」、「再軍備は認めない」、「戦争犯罪人の処罰」、「民主主義・言論の自由・基本的人権」など、すべてここで決められたことが日本の戦後の政治の基本になっており、そしてこれらは日本国憲法に書き込まれています。
昭和21年2月、マッカーサーが新憲法の作成にあたり3つの原則を示しました。一つは「天皇が国の元首であること」、二つ目は「戦争の放棄」ですが、この戦争放棄についてマッカーサーは「日本は紛争解決の手段としての戦争、自国の安全保持の戦争をも放棄し、日本は国家としての保護を世界の崇高な理念に委ねる」ということをノートに書き留めています。三つ目は「封建制度の廃止」です。
このノートを受け取って実際に憲法の原案を作ったのは26人のGHQ(連合国軍最高司令部総司令部)の要員の人たちで、ホイットニー民政局長とケーディス次長がチームの中心となったわけですが、戦争放棄に関するマッカーサーのノートメモについて、「これは少し言い過ぎではないか」ということで、2人が相談して「自衛戦争の放棄」は削除しました。同じ頃に日本側が憲法の松本案(松本烝治国務大臣が主体となって作成した大日本帝国憲法の改正試案)をGHQに持って行きましたが却下され、2月18日、吉田茂外務大臣にGHQが作成した憲法草案が渡されました。そして6月に憲法草案の審査を国会で行いましたが、その時の有名な話として、共産党の野坂参三代議士は「侵略戦争は正しくないが自国を守る戦争は正しい。憲法9条に戦争放棄と書いてあるけれど、侵略戦争の放棄とすべき」と素晴らしいことを言っています。それに対して吉田総理(5月、内閣総理大臣に就任)は「いやいや自衛権の発動も放棄しましたと」と答えましたが、これは占領時代ですからこう言わざるを得なかったと思われます。それに対して芦田均氏が憲法改正案委員会において「国の主権の発動たる戦争、武力の威嚇または武力の行使は、他国との紛争解決の手段としては永久にこれを放棄する。陸海空その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない」と主張しました。
これが最初の憲法9条案だったのですが、その後二つの事項を修正しました。一つは、9条の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を希求し」と、この憲法は日本人が作る憲法ですよということを意味する文章を入れました。もう一つは2項の冒頭に「前項の目的を達成するため」という言葉を入れて、戦力の不保持を1項の「侵略戦争はしない」ということに対応させてあります。

 

 

憲法制定の経緯

 

今、本格的な憲法議論が始まりますが、まず、憲法制定の経緯をみてみたいと思います。昭和25年、マッカーサーは年頭の辞で「新しい憲法はどのような観点からみても、相手の攻撃に対して自国を防衛する権利を否定しているとは解釈されない」と述べました。マッカーサーノートからの憲法解釈の変更第1号ともいうべきものですが、朝鮮戦争勃発を目前にして「日本の防衛をどうするか」ということに関して、日本の防衛は日本に任せざるを得ないという認識がここから始まりました。
そして6月に朝鮮戦争が始まり、日本ではGHQから再軍備が指示されましたが、日本側は「まだ日本はそういった状態ではなく、取りあえず警察力を強化しなければ」ということで警察予備隊ができました。このように、警察予備隊は軍隊ではなく、再軍備はしないが「自衛権を放棄するものではない」という認識のもとに、7万5000人の実力部隊として発足しました。この時の吉田首相の答弁は「警察予備隊の目的は国内の治安維持にあり、国連加入のためとか、再軍備のためとかというのはすべて当たりません。日本の治安を如何に保つかということが目的です」というものでした。

その後、日本はサンフランシスコ講和条約を締結して主権を回復し、アメリカとの間で日米安保条約を結びました。それを受けて昭和29年に自衛隊ができるわけですが、その時の吉田首相の答弁は「自衛隊はわが国を自衛する任務を有し、そのための必要最小限の実力を有するものであり、これは憲法に違反するものではない」というものでした。この考えが今日に至っており、「憲法9条は主権国家として有する固有の自衛権を否定したものではなく、第2項の『戦力不保持』は、自衛権の行使を裏付ける自衛のための必要最小限の実力を禁じているものではない」という解釈の流れにつながっています。
更にいうと、9条1項には「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とありますが、この1項というのは何かというと、1928年にケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)が結ばれたことに端を発しています。フランスの外務大臣のブリアンがアメリカのケロッグ国防長官に戦争放棄を目的とした仏米協定締結を提案し、これを受けてケロッグ長官が各国に働きかけた結果、ドイツ、日本など15カ国が参加してパリで調印し、その後63カ国が参加した世界的な国際条約です。どういう条約かというと「戦争は違法ですが、国際紛争の平和処理とか集団安全保障の場合は国際法においても認められ、自衛権は存在する」と定めたものです。
不戦条約においては、国際紛争を解決する手段としての戦争は放棄するが自衛のための戦争は容認され、戦争に関する国際法(戦時国際法)においては、国家の一定の権利として敵戦力の破壊および殺害、海上封鎖・臨検・拿捕・捕虜獲得などは認められています。

 

 

交戦権と自衛権

 

日本政府の解釈もこれを受けて、国の「交戦権」とは敵戦力の破壊および殺害、海上封鎖・臨検・拿捕・捕虜獲得、占領地での敵国民の財産強制措置、敵艦隊や港の封鎖を政府が宣言する権利であるとしています。ですから交戦権というのは「戦いを交える権利」という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称ということです。
しかしながら、9条では「交戦権」というものが「戦争を行う権利」として自明のものと受け止められていますが、交戦権というのは日本国憲法にしかない言葉で、このような意味での「交戦権」という言葉・概念は国際法上ではほとんど用いられておらず、その定義・内容についても明らかではありません。諸外国では「国が戦争を行う権利」という概念が、そもそもほとんど存在していないのです。
よく「交戦権は持たないのにどうして自衛隊があるのか」という質問を受けます。交戦権は自衛権とは別の概念です。日本が自衛権を行使して相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であったとしても、それは交戦権の行使とは別なものになります。相手国の領土の占領など、自衛において必要最小限度を超えるものは認められないとしています。「交戦権はないが自衛権はある」ということです。2項で定められている「陸海空その他の戦力の保持は許されていない。国の交戦権は認めない」に基づく解釈です。

それでは「自衛隊は軍隊か」という質問がでてきます。憲法上、必要最小限度を超える実力を保持しないという制限を課せられているので、通常の観念で考えられる軍隊とは異なります。一方で、国際的には軍隊として扱われています。誰が見ても自衛隊は軍隊なのです。「国際的には軍隊ですが、国内では軍隊ではありません」と私は国会で答弁させられてきました。(笑)「自衛隊は戦力かどうか」という質問に対しても、「禁じられている戦力は自衛のための必要最小限度を超えているもので、それ以下は禁じられていません」と私は答えています。ところが、小泉総理のときに「自衛隊は戦力ですか」という質問に対して、総理は「自衛隊は戦力です」と答えました。特に問題にはなりませんでしたが、小泉人気があるから答えられた言葉だと思います。しかし、これは当たり前のことなのです。自衛隊が戦力でないと国を守ることはできません。そういう意味で一般の言葉と憲法上の言葉との間に違いがあるということですが、日本ならではの事情です。
最近の事例でいいますと、稲田前防衛大臣が、南スーダンに派遣された自衛隊部隊からの報告の中に「戦闘行為がありました」という文章があったことに関連して、「これは戦闘ですか」と聞かれて「いや戦闘というと憲法に違反するから戦闘ではありません」と正直に答えて、国会が大きく紛糾しましたが、実際はそうではありません。法律用語の「戦闘」と一般用語で使う「戦闘」との言葉の違いだけなのです。法律でいう「戦闘」というのは国レベルの戦いのことをいっているわけであって、一般でいう「戦闘」というのは一対一の戦いの戦闘のことです。ですから国会でも「戦闘がありました」と言っておけばよかったのです。もしその時、私が答える立場にあれば「はい、戦闘はありました」と言いましたが、それが駄目というなら、自衛隊の服は戦闘服といい、自衛隊の飛行機は戦闘機というのは何でしょうか。野党の方には、もうそのような言葉の遊びのようなことで政府を追及するのは止めて欲しいと思っています。常識的なやりとりで実のある議論をしていかないといけないと思います。

次に自衛権、自衛力ということについてお話しします。1959年、砂川事件判決において最高裁は「憲法9条はわが国が主権国として持つ固有の自衛権を何ら否定したものではない。わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立をまっとうするため自衛の措置を取ることは国家として当然だ」として、「自衛権は憲法で認められている」という見解をだしています。
その後、安保改正があり大騒ぎになりましたが、その次に議論になったのが「専守防衛」です。砂川判決を受け、国会で「自衛権というのはどこまで認められるのか」ということが問題になったのです。この時に政府は「専守防衛」の考えを打ち出し、「相手から武力攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使し、その対応も自衛のための必要最低限度にとどめ、保持する防衛力も必要最低限度のものに限られる。憲法の精神に則った受動的な防衛戦略であり、わが国の防衛の基本的な方針である」と、ここまで言ってしまいました。
1960年代、米軍が本格的に介入したベトナム戦争に関連して、当時の野党の社会党から「これは憲法違反だ。日本はどこまで米軍と協力するのか。米軍部隊は、日本の米軍基地からベトナムに派遣されているのではないか」と追及されました。これに対して政府は「米軍部隊は日本の米軍基地から直接ベトナムには行っていません。途中で何処かに寄ってそれからベトナムに行っています」(笑)と答えるしかありませんでした。自衛隊の方も「集団的自衛権は使っていません。専守防衛に徹しています」と答えています。このあたりから自衛隊と米軍の関係が「盾と鉾」といわれるようになってしまったわけです。
さらに、これらの答弁において「地理的範囲は何処までか」ということを追及されまして、「範囲はわが国の領海・領土・領空に限られるものではなく、公海・公空においてもあり得る」と答えました。しかしここで新たな問題が発生します。武力行使の目的を持って自衛隊を他国の領土・領海・領空に派遣することは、自衛のための最小限度を超えるものであって憲法上許されないということですので、それでは公海・公空における武力行使は「3要件」に限りますということで枠を嵌められてしまったわけです。「わが国に対する急迫不正の侵害があること」、「侵害を排除するために他に適当な手段がないこと」、「必要最小限度の実力行使にとどまること」の3つです。ただし敵基地攻撃については「座して死を待つものではない」という答弁で柔軟性を確保しましたが、未だに「武力行使の3要件」は大きな影響力を保持し、未だにこれに引きずられているところがあります。本当にこれで国が守れますかということが今問われているところです。

「自衛隊の保有する兵器は戦力かどうか」、このような質問も受けました。当時はベトナム戦争が激しい時期でありましたので、「戦力というのは自衛のための必要最小限度の実力を超えるものであり、戦力にあたるか否かは全体としてみて、保有することによりわが国全体としての実力が限度を超えるか否かということで保有の可否が決せられる」と高等な答弁をしましたが、その時に「相手の国土を破滅的に破壊する兵器の保有は必要最小限度を超えるから、ICBM、長距離戦闘爆撃機、攻撃型空母を保有することは許されない」と言ってしまったのですが、未だにこれに縛られています。
しかしその後、当時の瓦防衛庁長官は同じ質問に対して「攻撃型空母は保有しませんが、防御型空母は保有できます」(笑)と答えています。現在、海上自衛隊のヘリ空母「いずも」は護衛艦ということになっています。今後もこのようなことが話題になるかも知れませんが、いったん枠が嵌められたとしても、本当に必要かどうかということはしっかり考えていかなければいけないと思います。

 

 

集団安全保障と集団的自衛権

 

ベトナム戦争の時代が終わり、昭和47年、田中内閣の時に「集団的自衛権は認められますか」と質問されて、「憲法で武力行使が許されるのはわが国への急迫不正な侵害に限られるので、集団的自衛権は許されない」と答え、それ以降このことにずっと縛られています。ところが世界情勢が大きく変化し、1990年の湾岸戦争時、初めて集団安全保障ということを考えたのです。「世界の平和のために日本は何ができるのか」、「せめて国連が決めたことについては支援してもいいのではないか」ということで、多国籍軍の後方支援を始めようとして議論が始まりました。「国際法上の武力行使は禁止されているものの、平和に対する脅威や侵略行為が発生した場合、国際社会が一致協力して行う行為に対しては、わが国としても適切な措置を講じて平和のために貢献する」という概念が提起されました。
これについては憲法前文の趣旨と国連憲章との間に相通じるものがありますので、一見できるようにもみえますが、ここで集団的自衛権が問題になってきます。国連による集団安全保障については、「国連憲章には集団安全保障の枠組みがあるので、わが国としては最高法規である憲法に反しない憲法9条1項、2項の範囲で国連憲章を果たしていく」という姿勢ですが、ここからが問題になります。
集団安全保障に関わる措置のうち、憲法9条によって禁じられている「武力の行使」または「武力による威嚇」にあたる行為については、わが国として行うことは許されないということですが、国連軍に参加できるかどうかについてはいろいろな議論がありました。この時の国会の最終的結論は「国連軍への参加については国連軍がまだできていないので、将来国連軍の編成が現実になった時に具体的に判断する」ということでして、はっきりした答えは出ていません。

いわば、そのような形で議論を避けたともいえます。「多国籍軍についてはどうか」ということも議論されましたが「武力の行使は行いませんが、多国籍軍としての活動は、他国の武力行使と一体化していないかどうかを基準として判断する」ということで、ここで新たに「一体化論」というのが出てきます。端的にいえば、一緒に戦っては駄目ですということでしょうか。したがって、多国籍軍への参加については「多国籍軍の司令官の指揮に入り、その一員として行動する」と定義され、多国籍軍の指揮下に入っては駄目ですということになりました。多国籍軍に参加するのは「自衛隊の活動が武力の行使と一体化することがない」という前提を確保することが困難であるということから難しい。しかし、一体化しなければ活動できますと、非常に分かりにくくなっています。いわば「一つのチームとして行動しているのに、そのチームの一員でなければ参加できます」というような非常に苦しい答えであって、結局この時には多国籍軍に参加はできなかったのですが、PKOには参加しようということで「PKO参加5原則」を作りました。
「紛争当事者間の停戦合意の成立」、「紛争当事者の受け入れ同意」、「中立性の厳守」、「原則が満たされない場合の撤収」、「武器の使用は必要最小限」という5原則ですが、これなら一体化することはありません。停戦が成立していますので武力行使をしようとしてもできませんし、中立ですので相手国のどちらの勢力とも戦いません。
この5原則が続いてきて南スーダンにおけるPKO活動となったわけですが、5原則のうち「中立性の厳守」については、国連においてそのウェイトは低くなっています。国連はPKO活動の原則として「中立」に代わって「公平」を掲げ、市民保護を重視して正しい方につきなさいという方向です。今はこれが日本側の足かせとなっています。また、「停戦合意」についても微妙なところがあります。
ちなみに南スーダンで「戦闘」といわれる事態が起こった時に私は防衛大臣の職にありましたが、派遣部隊を信頼していました。派遣されている部隊は日々訓練を行って状況に応じて迅速に行動できますし、部下を預かっている指揮官は適切な状況判断を行って部隊の安全を確保する能力を有しています。当然危険もありますが、危険な時はそれを回避する能力が自衛隊にはあります。ですから、どうしようもない時には報告があるものだと思って、現場での活動は彼らに一任していました。
安全というといろいろと難しいものがありますが、今でも南スーダンでは安全は確保され、中国も韓国も南スーダンのPKOを続けています。他の国も続けています。撤収したのは日本だけですので、その点では国連からの評価も今ひとつというところではないかと思います。国際社会の中で皆が平和を維持していこう、他の国を助けていこうとしている時に「わが国として何をすべきか」ということを真剣に考えていかなければならないということだと思います。

 

 

武力の行使と武器の使用

 

さきほど話しました「一体化論」もまだ続いています。武力行使ではなく武器使用という問題です。「武力の行使」とはどういうことでしょうか。武力の行使とは、人・物・組織体による国際的武力紛争の一環として行う戦闘行為ということで、武器の使用とは違います。武器の使用とは、銃とか火薬などで人を殺傷し、武力闘争の手段として物を破壊する機械、器具、装置を使用することで、武力の行使は禁止されているが武器の使用はできるというふうに使い分けをしています。
海外における対応を考慮しながらも自己保存のための自然決定的な権利という概念で武器使用ということになっています。これは何かというと、正当防衛と緊急避難なのです。日本の社会でも、正当防衛と緊急避難というのは刑法で裁かれることなく当然の権利として認められています。世界においてもこのような正当防衛と緊急避難の考え方は当然認められています。しかし何のための武器使用かというと、自衛隊が任務を遂行するための武器使用です。つまり、相手を救出に行くとか、仲間を守るとかの共同の警備をしようという時に壁になるのが「武器使用の範囲は自然的権利が派生する範囲だけです」、「自分自身の身が危ない時にしか武器を使用しては駄目です」という制約です。それでは身も蓋もありませんので、多少変えて「お隣さんが危ない時には守ってあげます。ただし向こうから守ってくれと要請がなければ駄目です」ということになりました。これが「管理下」と言う概念で、「自分の管理下に入ってきたものは守ってあげよう」ということです。このように徐々に適用できる範囲を広げてきて、まだまだ「共同警備」とまではいきませんが、ようやく「駆けつけ警護」というところまでできるようになりました。

それでも武器使用について諸外国ではみられない制約を受ける陸上自衛隊の指揮官は、現場でそのような状況に遭遇した時「本当に撃っていいのかどうか」迷ってしまいます。同じことは航空自衛隊にも海上自衛隊にもいえます。航空自衛隊には領空侵犯措置というのがあって、戦闘機で相手と遭遇したときに必要に応じて対処できるという法律がありますが、それでは具体的にどのような状況かというと「・・・・・」ということで明確に規定することは難しいものがあります。そのような中で指揮官がためらわずに決心できるのは結局正当防衛の場合しかありません。そうすると、自分が撃たれるまで待たなくてはなりませんので、そのあたりの判断が非常に微妙なところですが、これについてもきちっと整備されているとはいえません。海上自衛隊も、相手が領海に入ってきても、向こうから撃ってきたなどの事実に基づく防衛出動が出ていない場合には出動できませんので、基本的には警備出動になりますから、警察権しか使えないわけです。海上で正当防衛とはどのような場合ですかというと、これも「・・・・・」ということにならざるを得ません。
2013年、中国海軍によるレーダー照射事件が起こり緊迫した状況になりました。東シナ海において中国の艦艇がわが国の護衛艦に対して射撃管制用レーダーを照射しました。照射された護衛艦の方では一斉に非常装置が作動し、「ミサイルを撃たれる」という警報音が鳴りましたが、その時に、こちら側が対応措置としてただちに撃つことができるかというのは微妙です。ですから、そういう点も含めてきちんと対処できるようにしなければならないというのが「領域警備」という問題なのです。
警察と海上保安庁がしっかり警備を行い、警察力で対応できなかったら防衛出動なり治安出動をかけて対処するという今の方針はいいのですが、武器の使用に関する法制整備がまだまだ十分ではありませんので、名実ともに充実させるのはこれからの問題になります。

北朝鮮など日本の周辺地域における日米安保条約の効果的な運用を可能にする「周辺事態法」により米軍に対する後方支援ができるようになりました。しかしこれも「一体化しないこと」、「戦闘が行われていないこと」、「期間を通じて戦闘が行われることがないと認められること」、「わが国周辺上空の範囲であること」などの制約がありますが、これですと、武力行使が行われていない場所をわざわざ捜しに行かなければならないことにもなりかねません。
アメリカ同時多発テロ事件とその報復のアフガニスタン攻撃を受けて、2001年から海上自衛隊がインド洋に行きましたが、このときも対テロ特措法(テロ対策特別措置法)という法律を作りました。この時も派遣可能な条件として「戦闘が行われていない場所」ということで、結局インド洋のど真ん中の戦闘が行われていないところでの燃料補給ということで終わってしまいました。対テロ特措法のあとの「イラク特措法(イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法)」では、自衛隊の活動は「非戦闘地域」に限られましたので、わざわざサマワという戦闘が行われていないところで、水の補給とか病院の支援を行いました。

これら海外でのさまざまな活動などを教訓として、2年前に平和安全法制を作成し、ここで「限定的集団的自衛権」を容認しました。これは法律をもって邦人救出、武器防護、ACSA(物品役務相互提供協定)などを可能にするものであり、PKOにおいてもより広く参加できるようになりました。さきほどの「周辺事態」を「重要影響事態」として拡大したわけです。その他「国際平和協力」、「船舶検査」なども拡大し、そして「事態対処法」で「存立危機事態の対処」の新3要件、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命等の権利が根底から覆される明白な危険があること」などの下で、従来認められていなかった集団的自衛権の行使が限定的に認められ、武力の行使が可能になりました。

 

 

憲法改正に向けて

 

しかし、まだまだ不十分といわざるを得ません。本当に活動できるかどうかが大切なわけですが、それでも今までよりはましになりました。このおかげで、最近緊迫度を増している北朝鮮の危機にも対応でき、米軍と本格的な訓練ができるようになりました。
このように今の憲法でぎりぎり許される法律を作ってきていますが、万全な態勢でわが国を守るためには、やはり憲法を改正する必要があるということで、しかも今始めなければいけないということで、昨年5月の安倍総理の憲法改正の発言がありました。
自衛隊に対する多くの国民の信頼は得ているにも関わらず、多くの憲法学者や政党がまだ「自衛隊は違憲」と言っている現状があります。「自衛隊は違憲だが、生命を張って国を守ってくれ」という発言は無責任です。総理が示した案は、自衛隊が違憲であるという論拠の余地をなくすために、9条の1項、2項をそのままにして自衛隊の記述を付加するというものですが、シビリアンコントロールについてはしっかり書き込みます。
しかし、これは安倍総理の本意ではないと思っています。本当は諸外国並みに、自衛隊を正当に扱ったしっかりした国防体制を確立したいけれども、現実に憲法改正となるとなかなかハードルが高く、「戦争をするのですか」、「また戦争できる国にするのですか」という話になってきて、真意がなかなか伝わりにくくなってしまいます。ですから9条の1項、2項はそのままにしておいて、現状のままで、自衛隊というものを憲法に明記して、まず、国民の誰もが自衛隊を憲法で正当に認めることができるようにしなければならないという思いで提案をしました。これに対して、石破元幹事長は「そのようなまやかしはいけない。交戦権の問題はどうするのか。自衛隊は戦力です。そこを誤魔化さずに9条の2項は書き換えなければなりません」と正論を主張しています。
このように、自民党の中では活発な憲法改正論議が行われていますが、他の政党は冷ややかな態度でじっと見ています。何も言っていません。自民党が案を出したら、それに対して注文をつけるという対応をしていますが、希望の党と維新の党は積極的になってきています。何とか政党間で活発な協議を行い、自衛隊をはじめ、本当の意味で国を守れるような組織を確立できるように、憲法改正をしてまいりたいと思っています。
そういう意味で今年は大事な年であります。国民の皆さんにしっかり理解していただくためにも、国防協会としてはますますその使命が大きくなってきますので、どうかよろしくお願いしたいと思います。
話が長くなりましたけれども、本日はどうもありがとうございました。

(平成30年1月11日 公益財団法人日本国防協会国防問題講演会講演録より)