[第9回国防講座]
民主主義と統率~リーダーシップとフォロワーシップ~
冨澤 暉氏(東洋学園大学名誉教授、元陸上幕僚長)

一 統率とは何か

古代の共和政ローマには「独裁官(ディクテイター)」という職位があった。外敵の侵入や疫病の流行、政治的混乱など、国家の非常事態が発生した場合、権力が分散されると非効率なので、ただ一人の「独裁官(通常は軍人)」に強大な権力を与えて事態に対処させた。
平時は民主的に部下の意見を聞き、根回しをしつつ物事を進める現代においても、一旦危機が発生すればすべての「組織の長」は孤独な独裁者にならざるを得ない。この独裁者たる組織の長は、危機の状況を分析して、なにがしかの行動を決断しなければならない。しかし、彼がいかに賢明な決断をしても、その時、部下がその決断に従わなければ、危機管理(戦争指導)はできない。社長がいかに優れた経営判断をとったとしても社員がそれに基づき一生懸命に働かなければ、事業の成功は果たせないのである。
部下(社員)に、その行動をとらせる指揮官(社長)の精神的感化を統率といい、その力を統率力という。なぜ、統率という古い言葉を使うのか。リーダーシップでも意は通じるものの、それは欧米の文化を背景にしたものである。指揮官と部下、一対一の人格として向き合う場合、日本の文化(例えば義理・人情・浪花節)を背景にした我われには統率がより相応しい。
統率力は一般に、指揮官の「人格」と「能力」によって構成される。人格と能力のどちらに比重をかけるかは人によって違うが、少なくとも片方がゼロという人に統率はできない。統率の結果として現われるものは、部下からの指揮官に対する「信頼」である。「信」とは人の言葉即ち「嘘を言わない人」である指揮官の人格を表し、「頼」とは部下がその指揮官の「力を頼りにすること」即ち指揮官の能力を意味する。
勿論、平時でも統率力は大切だが、緊急時においてはその重要性が一気に拡大する。一般に、危機においては状況がすばやく変化し、その変化への対応が遅れると、それが組織員及び組織そのものの致命傷になりかねない。指揮官の統率力は、平時から部下の間で培われていることが望ましいものの、緊急時に発揮されなければならない統率力こそが特に重要である。つまり、緊急時における指揮官は、君子豹変してでも統率力を発揮しなければならないのである。
ともあれ、統率の目的とは組織全体の行動を一つにまとめることであり、それは指揮官と部下が同じ使命感を共有するということだ。本当に使命感を一つにできた部隊は、団結し、規律が保たれ、士気旺盛である、とされ、「団結、規律、士気」は部隊精強化の三要素といわれている。小さな組織の場合では、「指揮官が何も言わず、自分の行動とその背中で部下にそれを示す」ということもあるが、大きな組織の指揮官にとっては何といっても「言葉」が大事である。「炉辺談話」(ルーズベルト大統領が国民へ直接語りかけたラジオ番組)のような国民への直接の説得がなければ国家的危機における統率などできるものではない。

 

二 リーダーシップとフォロワーシップ

自衛隊(軍隊)における部隊の行動は、常に指揮官の命令の下で実施されることになっている。たとえば、二人の同じ階級の自衛官が仕事場へ行くために隊内を並んで歩く場合であっても、そのうちのどちらかが指揮官になり、「前へ進め」と号令をかけて歩調を揃えて行進する。この二人だけの部隊は自然にでき上がった臨時の部隊であり、右に位置する指揮官は「臨時の指揮官」、左に並ぶ部下は「臨時の部下」ということになる。すれ違う相手から敬礼された場合、答礼は当然指揮官が行い、列中の部下は前を向いて歩くのみである。
自衛隊に入隊した新隊員たちは、入隊直後からそのように訓練され、ここで最小限の「指揮官としてのリーダーシップ」と「部下としてのフォロワーシップ」を身につけていく。私が幹部候補生学校で区隊長から最初に言われたのは「よく従う者は、よき指揮官になる」という言葉であった。ただ、「本当の統率力(リーダーシップ)」や「誇りある服従心(フォロワーシップ)」といったものは、一時の訓練で簡単にできるものではない。階級を問わず、自衛官はそれぞれの部門で長い時間をかけて指揮官を体験し、部下を体験する。そして、その体験の中から各人が独自につくり上げていくのが統率力であり服従心なのである。つまり、画一的な統率力も、これに応ずる一律の服従心もあり得ないのであって、各級指揮官とその部下たちはその状況に応じて自らそれらを創造していかなければならない。

 

三 統率力を身につけるには

結局のところ、統率力とは各級の指揮官となる者が自ら学び考え、自ら修練して身に付けていくものだというしかない。指揮官にはどちらかというと、「能力」で部下をまとめ率いていく人と「人格」で率いていく人が現実にいる。能力も人格も満点であれば申し分ないが、どちらか一つにしても満点をとれる人はめったにいないので、点数など気にしないで、そのいずれについても、少しでも向上するように努力を続けるしかない。「能力」を向上させるには、自らの体験を増やし、そこで得たものを蓄積していくということが必要となる。しかし、個人の体験というものは極めて限定されたものなので、他人の経験を借りてこなければならない。これが「学ぶ」ということである。孔子が「学びて思わざれば即ち暗し」と言っているように「いかに学んでも自分で考えなければ前が見えず前進できない」ということになる。「思う・考える」ということは自分や他人の体験例をただ羅列するのではなく、その体験・知識に筋を通し傾向や論理を自ら作り上げ、変転する状況の先を合理的に正しく洞察するということである。それらの繰り返しの努力によって人の能力が向上するのである。
「学ぶことと考えることのどちらを優先すべきか」という問題は難しいが、私は成人には「考えることを優先する」ように勧めている。なぜなら成人は否応なく既に相当学んでいるはずなので、今こそ「考えるべき時」だと思うからである。私の体験からすると、考えれば自ずと学びたくなる。けれども、学べば考えたくなるとは必ずしも云えない。であるなら、まずは「考えること」なのである。

一方、「人格」を陶冶するにはどうしたらよいのか。ここでいう「人格」とは「他人と折り合っていく力」或いは「他人を惹きつけともに行動しようと思わせる力」とでも言えようが、一見やさしく思われるが、この力を向上させるのはとても難しい。それを得るための方法は幾つかあると思うが、私は若い学生たちに「何となく嫌いな人、付き合いたくない人を避けずに、彼らと積極的に付き合う」ことを勧めている。「社会人になれば、そういう人たちばかりに取り囲まれる。それらのすべてを避けていたら貴君は生きていけない」とも言う。「そういう人たちと無理してでも真剣に付き合っているうちに、相手の悪いところも、意外にもよいところも分かってくるし、それ以上に貴君自身のよいところも意外に悪いところも分かってくる。そこで相手のよいところをとり、自分の悪いところを抑えて付き合う、そうした付き合いを続けていけば相手も、そしてまた自分も変わってくる」と話している。
ここで再び孔子に戻ると、高弟の「教えの中で一番大事なものは何なのでしょうか」という問いに対する答えは「私はただ一つの道を貫いてきた。夫子の道は忠恕のみ」であったと云われる。この孔子の教えを簡単に言い換えると「自分には誠実に(厳しく)、他人にはやさしく」ということになる。そう考えれば、この「自分には厳しく、他人にはやさしく」というあり方は至極簡単で当然のことのように聞こえるが、言うは易し、されどその実行はなかなかに難しいことらしく、「自分にも厳しいが他人にも厳しい」、「自分にも他人にもやさしい」、「自分にはやさしいが他人に厳しい」といった人たちが世の中にはかなりいるようである。しかし、こういった人々は「人格者」とはいえず、指揮官・統率者になれないのは勿論、「よき服従者」にもなれない。そういう人ばかりの組織・社会はまとまりが悪く、いずれ自壊せざるを得ない。ひとり自衛隊だけでなく、あらゆる社会に「人格者」たるリーダー、フォロワーが一人でも多く現われることを願う次第である。

(平成30年6月22日)

「逆説の軍事論」引用
偕行社機関誌「偕行」引用