[第5回国防講座]
核兵器と通常兵器の役割 ~shaping・decisive・sustaining・Operation~
冨澤 暉 氏(東洋学園大学名誉教授、元陸上幕僚長)

2016年10月、国連総会において、「核兵器禁止条約の交渉の開始」を決めたオーストラリア・メキシコなどが主導する決議を123カ国の賛成多数で採択した。核保有国の米英仏露の他、日本を含む38カ国が反対、中国を含む16カ国が棄権した。他方、日本主導の「核兵器廃絶決議」もその同日に167カ国の賛成を得て採択された。「核廃絶」を主導しながら「核兵器禁止条約交渉開始」に反対する日本の態度について日本の識者の意見は割れたが。平和安保法制審議時に比べるとデモなどもなく、一般国民は静かであった。「日本の反対票」に国民は暗黙の了解を与えた、ともとれるが、本当に国民は本問題の本質を理解していたのだろうか。

 

1.法律や条約で核兵器をなくせるのか

○広島、長崎への原爆投下は国際法違反か?

広島・長崎への原爆投下は国際法違反であるとする判例は、世界に一つだけ存在する。それは「原爆判決(Shimoda Case):東京地裁・1963年」といわれ、下田隆一等の原告が「原爆投下は国際法に反する戦闘行為であり、日本国政府は連合国に対する損害賠償請求権を対日平和条約等において放棄した。したがって政府は、国家賠償法と憲法29条(財産権)に基づき原告(被害者)に補償を行うべきである」と主張したものである。判決は「原爆投下は無防守都市に対する無差別攻撃とみなされるべきものであり、違法な戦闘手段と解するのが相当である。さらに原爆の投下は不必要な苦痛を与えてはならないという戦争法の基本原則にも反している。ただし、原告の請求については国際法上及び国内法上も損害賠償請求権の存在は認め難い」と結論し、退けた。この判決は、結果において原告の請求を認めなかったが、広島・長崎への原爆投下について否定的な評価を下したものであり、国際的にも注目を集めた。なお、原告は控訴しなかったため、これが確定判決となった。

私は法律の素人であり、判例にもの申す資格を持たないが、この判決についてだけは大いなる不満を持つ者である。この裁判に関わった当時の司法界の人々は国際法、就中戦時国際法をほとんど知らないまま茶番劇を演じていたのではないか、とまで思う。なぜか。

 

○「無防備都市宣言」をしなかった日本

判決で述べられている「無防守地域・都市」というものは攻撃側が設定するものではなく、防御側が決めるものである。防御側が住民たちに被害が及ばないようにその地域を無防守と決め、その代わりその地域に対する攻撃側の無血占領を認めるものなのである。戦史を見ると、第2次大戦当初、フィリピンに侵攻した日本軍に対してマニラ市は「無防備都市」を宣言、第14軍はマニラを無血占領した。逆にその後、米軍が反撃を開始したとき、第14方面軍は当初マニラの「無防守都市宣言」をする予定であったが大本営の反対で実現せず、連合軍の激しい無差別砲爆撃により市街地は廃墟と化し市民の犠牲は10万人に上ったといわれている。無差別爆撃そのものが国際法違反だということになれば、ゲルニカ、重慶、ロンドン、ドレスデン、東京など他の地域で行われた爆撃に遡って議論されなければならないが、それら全てを含む公正な裁判はあり得ない。また、原爆投下が通常爆弾・焼夷弾よりも残虐(不必要な苦痛を与える)ものであるということは当該時点で日米ともに理解できなかった筈であり、この問題は現時点においても断定できないことである。

 

○日本の核武装は憲法違反か

これまでの自民党政権は「攻撃的なものでなければ核兵器も憲法に違反しない」としており、さらに要約すれば「自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持することは憲法においても禁止されていない。したがって、核兵器の全てが憲法上持てないということではなくて、自衛のための必要最小限の範囲内に属する核兵器というものがあるとすれば、それは持つことができる。ただし、非核3原則により一切の核兵器は持たない、このような政策的な選択をしている(1982年.予算委.法制局長官)」ということである。一見分かり易い文章だが、これで「必要最小限度を超えない実力」をイメージできる人は極めて少ないことと思う。

私は、この必要最小限度いう言葉が全ての混乱の元凶だと信じている。国際法上確立された「自衛の3要件」の一つ、「必要最小限度にとどめること(相対性・均衡性)」を素直に用いれば簡単に分かることなのになぜそうしないのか。「相手の侵害に応じる必要な限度」とは、一般的に言えば「目には目を」、「拳骨には拳骨を」ということであり、軍事的には「在来型(通常)兵器には在来型(通常)兵器で」、「核兵器には核兵器で」ということであって、実に単純な話である。自衛において大事なことは、過剰防衛をしてはいけない、ということに過ぎないのだ。

しかし、核に関してはそう単純に済まない場合もあるので厄介だ。現在、「ファースト・ストライク(核による先制攻撃)」は認められないが「ファースト・ユース(核の先制使用)」は認められる、否、それも認められない、といった議論がなされている。「ファースト・ユース」というのは、相手からの通常戦力による先制的侵攻があり、わが方を大きく凌駕している場合に核兵器を先に使用して対抗することであ。このように、米国は「通常兵器による侵害があった場合には核反撃も認められる」としているが、中国・ロシアなどはこれに反対して「相手が核攻撃をするまでは核を使うべきではない」と主張している。

米国は核兵器を在来型紛争の抑止力としても有効に使用したいのであろうが、局地の在来型紛争には自信を持ちながら、米国との戦争には自信のない中・ロはそれを避けようとしているらしい。核兵器を持たない日本は米国の核の傘に頼っているのだから、当然米国の主張に同意すべきなのだが、よそ事とせず、日本国民も真剣に考えるべきことだと思う。

 

○核廃絶決議と核拡散防止条約、包括的核実験禁止条約(CTBT)とは

核廃絶決議は核廃絶を謳っているものの、今すぐ核をなくすのではなく、1970年に発効した核拡散防止条約(NPT)の下で着実に核軍縮を進めていこう、というものであり、核拡散防止条約は①核保有国による核軍縮、②非保有国への核不拡散、③原子力の平和利用を3本柱としている。③の原子力の平和利用については国際原子力機関(IAEA)がしっかり査察を行ってきたことになっているが、これまでイラク、イラン、北朝鮮から査察拒否を受けている。

包括的核実験禁止条約(CTBT)は1996年9月の国連総会によって採択されたが、米国、インド、パキスタンなど一部の国については批准の見通しは立っておらず、条約は未発効となっており、この間北朝鮮が核実験を繰り返しており、当条約自体の有名無実化が懸念されている。

これらの動きに加え、先ほどの核禁止条約をめぐる各国の動向を合わせて考察すると、核兵器制御への道は困難ではあるが、その努力は無意味ではない。努力を継続することによって「核戦争のない世界平和」が維持されていることも事実である。このような中、日本は周辺を非核地帯とする外交努力を続け、極めて曖昧な米国の核の傘をより確実なものとするために、日米関係を強化するしかない。

 

2.日本核武装の是非とその可能性

○「非核3原則」と「米国核依存」の両輪

1964年10月に中国が初の核実験を実施した。その直後、訪米した佐藤栄作首相がジョンソン米大統領に「中共が核を持つなら日本も持つべきだと考える」と述べたことが外交文書で明らかになっている。佐藤首相は帰国後、内閣調査室に「日本核武装の可能性」を検討させるも、その結果は「核武装は可能であるが、同盟国アメリカを敵に回すことになりまた国民も反対し、実現は極めて困難である」であった。その後、米国は「核拡散防止条約(NPT)」を積極的に推し進め、日本もこれに同調し、条約の調印・批准に先んじて「持たず、つくらず、持ち込ませず」という非核3原則を施政方針で表明した。日本はNPTを1970年に調印し76年に漸く批准したのだが、その後の日本政府は「非核3原則と米国核依存」を寸毫も変えることはなかった。

 

○10年の時を経て再浮上してきた「核武装論」

その後、西部邁の「核武装論」、伊藤貫の「中国の核が世界を制する」、日高義樹の「ワシントン・リポート」などが日本核武装論を煽ったが、いずれも政府とマスコミが関与しなかったためか、しばらくして鎮静化してしまった。

そして、約10年後の今日、米大統領選においてトランプ政権が「日本は核武装したらよい」と言ったことで、このところ再び「日本核武装論」が復活してきたかに思われる。

自らの核戦力を更に増強してNPT体制を強化しようとしている現米政府が、日本に核装備を強要することは一般的にはあり得ない論理だが、かつてニクソンが佐藤栄作に提案したように「核武装をとるか、米軍基地の全面撤退をとるか、それとも高額通常兵器を買うか」と日本に取引を迫る可能性は十分にある。また、インドの核武装にあれだけ反対していた米国が、いつの間にかインドと核協力するようになった経緯をみると、日本の核武装に同調的な米国のリアリスト学者たちの意見が表に出てきて、君子豹変した米国が日本核武装を本気で要求することもなしとはしない。それにどう対応すべきかについては考えておかなければなるまい。

 

○恐ろしい兵器だからこそ平和に資する、とはいえ核保有国の増加は困る

日本では「核廃絶」を主張する人々が多いが、世界から核がなくなっても世界に本当の平和は訪れないであろう。なぜなら在来型(通常型)兵器が残るからである。在来型兵器はその使用者に「相手を絶滅させても、自分は生き残れる」という可能性を与える。核兵器に比べ在来兵器には「軍事的相互脆弱性」がない。となれば各国が再び国家間決戦を始め、再び第1次、第2次大戦の轍を踏むおそれが大きくなる。ここまで言うと「では在来型兵器もすべてなくせばよい」という声が出てくるかも知れないが、世界の秩序をリードする米国国内において小火器の保持規制さえできない現状からして、世界の全ての武器を廃絶することは極めて非現実的な夢想に過ぎない。いずれにせよ、核兵器が恐ろしい兵器であると認識することが、核兵器の「ストッパー」としての意義を高めている。核兵器が恐ろしい兵器であると喧伝することは、世界秩序(平和)のためによいことである。

 

かつて米ソ対立が激しかった1980年代半ばに、米ソ両国はそれぞれ約3万発の核弾頭を有し、地球上の全人類を6~7回絶滅できる、という出所不明の話をよく聞いたものである。現在では米ロともに、1500発台まで削減することを約束している。現実には削減は遅れており、両国ともに6~7000発の核弾頭を残しているという。英・仏・中国の核保有は2~300発、インド・パキスタン・イスラエルは各100発前後、北朝鮮は数十発とのことである。米ロを除いては、大国として認めてもらいたいとの宣伝効果或いは特定の相手への抑止等が核保有の理由と思われる。しかし、米ロの核が世界秩序(平和)の維持に役立っていることは確かだとしても、イラン・北朝鮮のような国が核開発を進めると、世界の核使用の敷居が低下し、全体の秩序が脆弱なものとなるので困る。それ故、これ以上の核拡散を止めようということになる。既核保有国の核を保全して、その他の国の新たな核保有を禁じることは確かに不平等な話である。しかし、世界の平和、即、各国の平和と考えるならば、これはやむを得ないことと考えなければならない。そこで多くの国々に、核不拡散条約に参加してもらいつつ、既保有国の核軍縮を少しずつ進めていく、その最終目標として「核廃絶」という遠い先の目標だけは掲げておくというのが現在の「核拡散防止条約(NPT)体制」なのである。

 

○「日本は核武装すべきではない」のだが、日本の核武装の可能性は?

NPT加盟国たる日本が核武装することは、できないしすべきではない、というのが私の考えである。これまでにも述べてきたように、軍事は外交の背景として存在するものだから、日本が孤立化してその外交が成り立たなくなるような軍事措置をとってはいけない。しかし、外交が核武装を求める事態になった場合は別である。最大の同盟国たる米国自身が日本核武装を公式に要求してきたようなときには、国際情勢をよく分析し国家戦略を再構築し、それに沿った軍事措置をとらねばならない。

 

技術的可能性については、知見を有しないのでよく分からない。原子力工学に詳しい自衛隊OBにきくと、それは不可能ではないようである。ただ、数カ月以内でできるようなものではなく、何年というレベルの時間を要するらしい。ただ、より大きな問題は、この核兵器をどこで開発し製作するかということだ。厳しい秘密管理と危険管理のできる民間工場が日本にはないし、国の工廠もないからである。実験場がないことは当然だが、これはシミュレーションでカバーできるという。

最大の問題は国民の反対が多く残る中で、核兵器装備化へのロードマップを描ける政治家・学者・官僚が全くいないことだ。仮に米国が豹変し、日本核武装を押し付けようと各種の米国人たちがやってきたとしても、これに協力できる日本人が、マスコミも含めほとんどいないのである。

 

このように改めて、日本の核武装の可能性について考えてみても、結局、50年も前に内閣調査室が当時の佐藤首相に報告したように「核武装は可能であろうが、世界の国々を敵にまわすことになり、また国民も反対するので、実現は極めて困難である」ということが当面の結論になる。通常弾頭による敵基地攻撃にも、ミサイル防衛にも期待できないのであれば、今や、諸外国のようにシェルターをつくることが先決ではないか。

ただ、世界が激動の時代に入ったかの兆しもある。何かのときに核武装が必要になるかも知れない。その時のために日頃から勉強し覚悟を定めておくべきなのでが、それは自衛隊員の仕事ではなく、国民自身とそれをリードする政治家・学者・マスコミの責任だ、と承知して欲しい。

(平成30年2月23日)

 

「逆説の軍事論」引用

新潮社Foresight(フォーサイト)引用