[第3回国防講座]
安全保障とその手段 ~国家安全保障と国際安全保障~
冨澤 暉 氏(東洋学園大学名誉教授、元陸上幕僚長)

 1.安全保障とは

前回の講座で「安全保障とは何か」について見てきたが、本日は一部重複するのを厭わず、更に詳細に考察していきたい。まず、安全保障手段の大分類としては次の4つが考えられる。一つには「価値を獲得・保有しない(失うべきものを持たない)」。個人なら出家・世捨て人、国家なら鎖国となるが、現代に鎖国はあり得ない。二つには「脅威(敵)をなくすか、またはその力・意思を弱める」。通常、武力によって実行されるもので、現代でも各国の安全保障手段の主力であり、抑止概念をも含みこれを一般に「軍事・防衛」という。三つには「被害を最小限にし、更に回復する準備をしておく」。危機の発生に備えて常に準備されるべきもので、価値の分散や備蓄等、「残存(サバイバル)」ともいう。そして四つには「脅威(敵)をつくらない(敵を味方にする)」。古くから存在した安全保障の手段で「外交」の範疇として、第2次大戦後、それ以前の時代に比べより重要性を増大させている。それは核兵器の開発による力の集約が多極世界を一ないし二極世界に変え、これにより国家間決戦がなくなり、世界が総じて平和となったためである。現代の軍事的脅威とは「大量破壊兵器の拡散」と「非対称脅威たるテロ」であり、それは「軍事的一極体制を多極体制に戻す脅威」と認識される。

 

それではこのうち、一般に「軍事・防衛」といわれている「脅威(敵)をなくすか、またはその力・意思を弱める」について更に見ていくと、次のような場合が考えられる。

①「相手に脅威を与えない」。非武装中立論がその代表であるが、「非武装の実態は何か」、「武装以外のものは他国に脅威を与えないのか」という疑問に答えられず、今、これを信ずる人は少ない。②「誤解を解くために話し合う」。対話・話し合いに反対する人は少ないが、「軍事・経済・技術力を背景にしつつ対話する」か「あくまでも普遍の正義を準拠に対話する」か、その比重の置き方については意見が分かれている。③「相手に尽くす(金銭付与を含む)」。ODA(政府開発援助)や武力支援・武器援助等であるが、日本は過去の反省から武力支援・武器援助は一切しないこととしている。ODAについては「どこまで経済的支援をすれば相手が脅威・敵にならないのか」が不明であり、同時に「当方の国力を減少させてまでの支援は不可」という限界もあり、更に日本の経済力衰退という現実もあって、かつてODA世界一の座にあった日本もこの十年ほどはその方針を見直しつつある。④「他人に『あの人はよい人だ』と言ってもらう」。これは、企図してできるものではない。日本は第2次大戦等の影響で「北東アジアでは評判がよくない」と言われているが、日露戦争での働きや戦後60年の実績から、その他の世界では比較的評判のよい国だと自認している。⑤「妬まれないように、威張らず、地味に暮らす」。これも実行は難しい。国際会議で発言せず、ただ微笑むのが日本人の美徳とされた時代もあったが、今どきそれは通じない。GDPが世界の上位にあり、国際平和協力に参加しないというだけで妬まれる現実を日本人は今実感しつつある。⑥「別の敵をつくって相手を味方に引き入れる」。かつてよく用いられた手段であるが、世界の現状(軍事的一極)からして、現代の国家間の手段としては採り得ない。ただし、一般的な「大量破壊兵器」とか「テロ」とかを新たな脅威(敵)とする範疇においては問題なく、多いに活用すべきものである。⑦「当方の防衛力(有形・無形)を見せ、『この人の敵にはなれない』或いは『この人を味方にすれば頼りになる』と思わせる」。これは、防衛力を用いた外交であり、これが正に「信頼醸成措置」であり「防衛交流」の主力となるものである。この手段は非常に効果的で今後の「脅威(敵)をつくらない」諸手段の中核となすべきものと思われる。

 

2.国家安全保障から国際安全保障へ

(1)自助・共助・公助という言葉について

石原新太郎が東京都知事を務めていたとき、都の防災に関連して「被災の窮地にあっては、自助の努力と共助の努力そして公助、即ち自衛隊などの努力があってこそ被害を最小限にできるのだ」と述べたことがあった。ここでまず、限界を引くのが難しいと思われる共助と公助について考えてみたい。

辞書を引くと、共とは「一緒にすること、共にすること」、共助とは「助け合いのこと」、公とは「偏りのないこと、国家、社会、世間」と書いてあり、単に政府の施策だから、国の予算を使っているからという理由だけで区別することはなかなか難しい。「現代においては純粋な公助などというものはあり得ず、共助グループ間の調整結果こそが実は民主主義制度下における公助である」という話にも納得できるものがある。よく考えてみると、自助と共助の関係にもいろいろとすっきりしない問題が残っているが、今、より問題なのは社会のあらゆる場面で共助と公助の混乱が見られることである。それだけ、国家と一般社会生活の関係に変化のある時代だということになるが、そうであればあるほど我われはここで、現代に適合した公と共の区別を明確にする必要があると考える。今や、自(私)以外のもの全てを「公共」という曖昧語で一括できる時代ではなくなっている。では、この自助・共助・公助の問題を国内問題から離れ、例えば、個別的自衛権を自助、集団的自衛権を共助、集団的安全保障を公助として、国際社会に当てはめて考えてみるとどのようになるであろうか。

 

(2)世界平和(秩序)の維持

国際安全保障の目指すところは、いうまでもなく「世界の平和」である。わが国の安全保障が世界の平和に必ずしも結びつかないことは確かであるが、逆に「世界の平和」は「わが国の安全保障と平和」につながる。

世界平和維持のためには「勢力均衡(パワー・バランス)」か「覇権(ヘゲモニー)」のいずれしかないとよく言われる。その観点からすると、米・ソ対立の時代は勢力均衡によって平和が保たれていたということになる。そしてソ連が崩壊した後、一時期「今や米国一極即ちパクス・アメリカーナの覇権による平和の時代だ」という意見も多く見られたが、現在、新しいパワー・バランスが存在することを否定する人はいない。とは言え、このパワー・バランスはかつての米・ソ対立時代のそれとは全く違っており、ポスト冷戦のこの時代は何と一極にはならずに一極・多極混在時代となってしまった。

 

そこで、米国はこの時代に国益を守るため、「世界的関与(グローバル・エンゲージメント)」という戦略、即ち米国中心のパワー・バランスを追求しようとしたわけである。この均衡の相手はいずれも旧ソ連のように強くはないものの何せ多極、それぞれが自分勝手に押したり引いたりと変化して不安定である。また逆に明確な敵をなくした米国では、安全保障について国内の意見をまとめることが難しくなり、現に25パーセントもの軍縮を実行した。したがって、米国中心のパワー・バランスは意外にも不安定で、だからこそ、その均衡の下を掻い潜って、わけの分からぬ毒蛇や害虫が出没する事態になっているのだ、とも言える。そこで米国は、もはや独自で不安定化した勢力均衡を安定させることはできないので、このため盛んに諸外国(友好国)の協調・加担を求めるようになってきている。

 

(3)日本は米国中心の世界平和に協力すべきか

米国は海外進出にあたり一貫して「自由と民主」を標榜し、現在、これは普遍的なものとして諸外国からも認められるようになっているが、このような米国が推し進める世界の平和維持に日本は協力しなければならないのであろうか。日本と米国の過去の歴史を乗り越えて、ここは積極的に協力することが何よりも大事だと考える。なぜなら日本はこの50年、既に自衛隊の存在や基地の提供等でそれなりに協力してきたという実績を有し、現にその平和を享受し、米国の「自由と民主」の細部についてはともかく、この基本について異論を唱える日本人はほとんどいないと思われる。

そして、それ以上に重要なことは、多くの諸外国がこの世界の平和維持に協力している、ということである。もし、日本がここで非協力の立場をとれば日本は米国だけでなくこれら諸外国からも孤立することになる。その場合、日本は諸外国に対して何もものを言えぬ立場となるが、独立国として独自の意見を述べ、仲間としての義務を遂行して彼らから信頼、尊敬される機会を失うことは大きな損失である。今、日本の「平和と独立」を護るにあたり何よりも重要なことは「世界からの孤立」を何としても避けることであり、そのために日本は、米国を中心とする諸外国にこれまで以上の協力をすることを速やかに決断しなければならないと考える。

 

(4)米国と諸外国の軍事的協力の在り方(共助・公助の形)

軍事協力の在り方を分類すると、①国連軍、②PKO、③国連認可の多国籍軍、④国連認可のない多国籍軍、⑤多国間集団的自衛権、⑥二国間集団的自衛権の六つに分けられる。以下それぞれについて簡単に説明する。

第一は「国連軍」。本来、米国の理想は「諸外国との軍事協力を国連軍という形で行うこと」にあり、そのために「諸外国が国連安全保障理事会において米国の意見に同意してくれること」であった。だからこそ米国は第2次大戦の最中から連合国の筆頭リーダーとして国連の開設にあれだけの努力をして来たと思われる。確かに国連軍は、国連憲章43条にある特別協定も存在せず、47条の軍事参謀委員会も形骸化していることから現実には正に虚像となっている。しかし、いかに虚像であってもこれが原点であり、この原点をしかと認識せぬまま、後に出てくるPKOや多国籍軍のことを理解することはできない。

第二の「PKO」については国民周知のことかと思われる。PKOは地域紛争の現地に中立的に介在し、場合によっては国連の暫定統治の一翼を担い事態の平穏化を図る活動である。この活動にはいろいろな制限が付けられているが、ともかく、戦闘を目的としない軍事活動であるというところに最大の特色がある。

第三の「国連認可の多国籍軍」については、朝鮮戦争時の国連軍、湾岸戦争の多国籍軍、ボスニアでのNATO軍を中核とする多国籍軍、東ティモールの多国籍軍を思い出してもらいたい。要するにこれは、正規の国連軍ができないため替って創られたものと理解できる。多国籍軍の最大の問題は指揮関係がどうなるのか、更には作戦期間をも含めて軍事目標をどう定めるかということである。これらの点について、ここに挙げた例はそれぞれに微妙な差異があるが、いずれにあっても米国がその状況に合わせ巧みにリードし決定してきたことが窺える。特に指揮関係について東ティモールの場合、これまでと違って指揮を豪州軍に譲り、米国が後方支援にまわったが、こうした新しい動きにも着目して行く必要がある。

第四の「国連認可のない多国籍軍」というのは、コソボ問題でユーゴに出撃したNATO軍の例しかない。これについては未だに解決したとはいえず大問題として残っているが、このままいくと国際慣習法として定着してしまう可能性もある。

第五はNATOのような「多国間・集団的自衛」である。これは承知のように国連憲章51条に定める集団的自衛権行使を根拠とする多国間同盟を意味している。特に米ソ対立時代、パワー・バランスを支える主力として戦争抑止に大きな効力を発揮したが、結果として集団的自衛権行使の実績はほとんどなかった。

第六の「二国間・集団的自衛」は日米安保条約や米韓相互防衛条約のような、これまた集団的自衛権行使を根拠とする二国間同盟である。米国が関与している二国間同盟を合わせて見れば多国間同盟と同じようなもので、むしろ米国主導の調整・統制が取り易い分だけ都合がよいともいえる。

 

ここまで六つの軍事協力の在り方についてそれぞれの特徴を述べてきたが、これらを二つのグループに分けると、第一は①国連軍、②PKO、③国連認可の多国籍軍、④国連認可のない多国籍軍の4つで、これを「集団的安全保障」即ち「公助」のグループ、第二は⑤「多国間・集団的自衛」⑥「二国間・集団的自衛」の2つで、「集団的自衛」即ち「共助」のグループとする。

「集団的安全保障などというものは、極めて非現実的なアイデアに過ぎず、国連軍が存在しない今日、軍事的にはそもそも世界に存在しないもの」と言う人もいるし、

「国連軍が自ら主宰する行動、例えば国連軍・PKOに限って集団的安全保障の軍事行動といえる」と言う人もいる。しかし、かの不戦条約で禁止された戦争と自衛行動以外の全ての軍事行動はすべからく集団的安全保障のための軍事行動といってよいと考える。現にNATOの人たちは「NATOは集団的自衛権行使を根拠とする同盟だが今後は集団的自衛と集団的安全保障の2つの路線を進むことになるだろう」と述べ、集団的安全保障の例としてボスニアやコソボでの多国籍軍の行動を挙げている。

ただ、「集団的自衛」と「集団的安全保障」については非常に似た言葉なので、米国でも日本でも混同して用いられ互いに誤解を生んでいる。多くの米国人は集団的自衛という言葉をよく知らず、集団的安全保障という言葉を使っている。そして集団的安全保障の中に国連関係だけでなく、本来集団的自衛であるべきNATO条約や日米安保条約のことを平気で連ねている。彼らにとっての集団的自衛というのは、どうやら集団的安全保障のための手段のように思われる。

一方、日本では集団的安全保障という言葉はあまり使われず、何でもかんでも集団的自衛権としており、これさえ行使できれば、PKOも諸外国並みに参加できるし、多国籍軍参加もできるようになると考える人が多く存在している。このように日米ともゴッチャになって使っているので、「結局はどちらの言葉も同じ意味なのではないか」と言う人もいるが、米国のものは「公助の中に共助を手段として含む」という意味であり、日本のものは「共助が即ち公助であるとする混同」である。この混同の違いが現実の行動として現れたとき、それが意外にも日米間の摩擦要因になるのではないかと危惧しているところである。

 

(5)集団的自衛(共助)と集団的安全保障(公助)の違い

国際社会における共助と公助の違いを説明する前にまず「自衛とは何か」ということについてお話しをしたい。人間も国家もその昔は、全て自力救済によって生きていたが、その自力救済(端的な例として決闘)による殺戮・侵害・強奪・報復といったことがあまりにもむごたらしくまた結局は互いにとって損だということを知り、それらを禁ずる法律が作られた。そこで自力救済とは基本的には法律に基づかない行為と解されるようになった。

国家間の問題については、その法制化が大分遅れていたものの、それでも1928年に不戦条約が結ばれて「国家の政策手の手段としての戦争」、「国際紛争解決の手段としての戦争」という名の自力救済は不法なものとされた。しかし、個人においても国家にあっても、自力救済が全て不法となったわけではなく、自衛(正当防衛)という名の自力救済はなお特例として認められている。

なぜ、自衛(正当防衛)は認められているのであろうか。自力救済を法律で禁じてもその法律を破る者は必ずおり、その不法者を罰する一罰百戒により、犯罪の発生・拡大を抑止する目的で秩序維持機構が整備されていくのである。国際的な秩序維持機構ともいうべきものが今の国連であるが、それは必ずしも完全なものではなく、時と場合によりそれが全く機能しないことが見られる。つまり、「お巡りさ~ん」と呼んでも警察官が来てくれない場合があり、その時にはじめて自衛(正当防衛)が認められるわけである。「自分というものは何よりも大切だから、その自分を護るための自衛手段には何らの制限もない」と誤解している人も多いようであるがそれは間違っている。自衛(正当防衛)とはあくまでも「急迫不正の侵害があり、これを防ぐため他に手段のない場合に限り、必要な限度内において相手に危害を与えても赦される」というものであるから、国家の場合、自衛行動をとるときには直ちにその旨を国連に報告せねばならず、国連がその事態について何らかの措置を取った場合、即ち他の手段が現われた場合には同時にその自衛行動を止めねばならないことは自明である。

例えば日本周辺で米軍が自衛戦闘をしていて仮に集団的自衛権行使を認められた自衛隊が米軍を支援し戦っていたとして、その時、国連が何がしかの決議をして国連軍または多国籍軍の出動となったとするならば、日・米両軍は直ちに自衛戦闘を止め国連軍または多国籍軍の一部としての戦闘に切り替えなければならない。この後段の戦闘は明らかに集団的自衛権の行使ではなく集団的安全保障の義務遂行としての行動だということになるわけである。

 

さて、個別的自衛権は自分で自分を護ることであるのに対して、集団的自衛は自分と極めて親しい者を護ることであるが、いずれにしても、公に対して私的要素が強いものとなっている。また、自衛は「自衛の権利を行使しても赦される」という権利であるところに特徴がある。これは他人さまから言わせると「貴方の自衛の権利は行使しなくても一向に構わないのですよ」ということでもある。

これに反して秩序維持機構の機能、即ち、集団的安全保障機能は「社会秩序を維持すること」を目的としている。無論その行為の結果として、特定の個人(国家)を救うということもあり得るが、こちらはあくまでも社会全体のため、公のためのものなのである。そして秩序維持機構がその機能を発揮すること、即ち公に尽くすことは法律の定めるところによる「義務」の遂行と捉えられる。かのアーミテージ・レポートにおいても「日本も、常任理事国入りは集団的安全保障に関わる明白な義務を伴うことを理解しなければならない」と言っているが、そのように集団的安全保障というものは「義務」の法律でできていることを忘れてはならない。

それにしても問題は国際社会の秩序維持機構たる国連にある。この国連がしっかりした国連軍を持ち、常任理事国がいつも意見を一つに纏め、集団的安全保障の機能を全うしてくれれば問題はないが、その実態は皆さんご承知のとおりである。この問題をどのように解決していったらよいのであろうか。

 

例えをもって説明すると、個別的自衛権は自分の家に鍵を掛け木刀を準備すること、集団的自衛は二所帯住宅における防犯準備、集団的安全保障は町民全員でやる夜警、国連安全保障理事会は実力組織を持たぬ極めて非力な公安委員会と考えられる。日本の場合、自分は二所帯住宅の二階に住んでいて、下には力の強い兄貴一家(米国)が住んでおり、二階にも外からの入り口があるので、一応、自分の玄関には鍵を掛けている状態である(個別自衛権)。そして、もしその鍵を壊して強盗が入ってきたら下にいる兄貴が木刀をもって助けに来てくれることになっている(集団的自衛権)。しかし、一階の兄貴のところに強盗が入って来ても自分は弱いから助けに行かなくてもよいということになっているのである(日本側で今言われている集団的自衛)。その兄貴が実は町の有力者で、彼が町の治安維持のために町の人たちを説得して、夜警(集団的安全保障)を主宰しようとしているのだが、弟が「わが家は鍵を掛けてあるし、兄貴も強いので強盗が入ることはなさそうだ、また夜に出歩くこともないので夜警は関係ない。その上危険なので参加しない。お金はあるので皆さんの夜食分程度は出してもよい」と言っているようなものである。それでも、兄貴が庇ってくれるうちはよいとしても、このようなことではいずれ村八分になってもおかしくない状況といえる。

もうひとつの重要な問題は非力な公安委員会(国連安保理)と有力者たる兄貴(米国)の意見がなかなか合わないということにある。兄貴としてはできるだけ公安委員会のお墨付きをもらって行動したいと思っているが、委員会には少数ながら兄貴を妬むものがいて、全会一致でないとお墨付きは出せないよと妨害している状態である。最近の事例のコソボ問題の場合は、痺れを切らして兄貴を囲む町内有志一同で行動を起こしてしまったが、今後はどうしたらよいのであろうか。弟(日本)としてもこれまでのように他人事として放っておくわけにもいかないと思われる。場合によっては、自ら公安委員会(国連安保理)に乗り込んで町内や兄貴のためにひと働きしなければならないのでではないかと思われる。

 

(5)一国平和主義からの脱却

これまで述べてきたように、世界の平和維持は米国が中心になって進めてきており、その米国が日本を含む諸外国に協力を求めてきているのが今日の状況である。米国としては本来、集団的安全保障(公助)に基づく協力を得て、米国の願う世界平和(秩序)を構築したいのであるが、現段階ではそれが十分にできないので、やむを得ず集団的安全保障(公助)を補うものとして集団的自衛(共助)をも活用しているということと思われる。・つまり、米国にとって集団的自衛(共助)はあくまで集団的安全保障(公助)の一部にしか過ぎないということである。

考えてみれば、現在の米国には外地に拠って米国を自衛しなければならないという必要性はない。また、特定の他国を集団的自衛によって命がけで護らねばならないという必要性もない。であるから、集団的自衛は米国・国防の最重要手段とは成り得ないものである。お分かりのように、米国は米国と日本のためだけを考えて日米安保条約を結んでいるわけではなく、互いの自衛のためというよりは、あくまでも彼らなりの世界平和構築のためにこそ締結しているといえる。そして、日本も同様に独立国として、米国を中心とする諸外国とともにその平和を推進していかねばならない。なぜなら、この平和は日本にとっても極めて都合のよいものとなっているからである。この観点に立てば、日米安保条約で集団的自衛権を正しく行使できるように改正して、日米関係を一層緊密なものにしていくことも無論重要であるが、それだけでは、米国による集団的安全保障のほんの一部を強化し、極めて間接的に、しかも僅かばかり世界平和に寄与したということに過ぎないと思われる。日本は、米国やその友好国が世界平和を維持しようとしている同じ土俵に立って積極的に活動し、直接的に寄与しなければならないのである。

先にも述べたように、日本では、集団的自衛権の問題さえ片付けば日本は世界の平和に大いに貢献できるようになるのだ、と誤解している人たちがたくさんいる。その方々に水を掛けるつもりはないが、現在、自衛隊が集団的自衛権を行使して米軍に寄与する余地というものは、ないとは言わなくても極めて小さなものに過ぎない。もともと米国は自衛をしなくてもよい国であり、自衛戦闘をする場面というのははじめから限られたものになっており、したがって日本が、集団的自衛権を行使する機会はそれほど多くない。では米軍が日本に本当に協力してもらいたいと思っている場面とはどんなものかというと、PKO,多国籍軍のところではないかと思われる。近年、米軍は自衛隊に対して盛んに多国間訓練、多国間会議への参加を持ちかけてきており、これらについて現在の自衛隊は、多国間の効率的な軍事技術の交換・相互修練の場と捉えそれなりに対応している。しかし、多国間の共同作戦行動の訓練等は一切やっていない。しかし、本来、多国間訓練は多国間の相互運用性向上のためにあるものなので、米国が二国間訓練よりも多国間訓練を重視しつつあるということは、多国籍軍による行動を真剣に考えている、或いはいざとなれば、いつでも多国籍軍が組めるという態勢をつくり、抑止力として平和維持に役立てようということと思われる。こうした分野の活動は訓練をも含め、すべからく集団的安全保障に関わるものであり、自衛とは直接関係のないものである。

 

日本人は自宅を塀で囲い、その中の庭だけを愛で、塀の外については見ようとせず、道路や公園の掃除は他人に任せっぱなしという傾向があるように思われる。これが一国平和主義の元になっているのかも知れないが、そのようなことが、この厳しい国際社会でも同様に通るということは考えられない。個別的自衛権は無論大事であり、集団的自衛も大切と思われるが、自衛だけの一国平和主義だけでは世界の謗りを免れることはできない。塀の外の美化に積極的に協力し国際社会の景色と空気をきれいにして、その背景の中に融け込んだわが庭を造ることが大事なのではないか。

従って、軍事協力は日米間だけでなく、諸外国、更には国連を含んだものを求め、基本的には集団安全保障(公助)の考え方に基づいて進んでいくべきものと考える。ただ、「共助よりも公助」という、この考え方を実行に移すにあたっては現実の世界をよく認識し、その現状に適合させていかねばならない。そのためにも、ここでいう公助とは国連中心の集団的安全保障(理想的集団安保)ではなく、あくまでも、米国中心の公助(現実的集団安保)だということを決して忘れないことが何よりも大切である。

 

3.結び

本日は主として国際社会の問題を「公」・「共」・「自」というテーマで検討してきた。「公」・「共」・「自」の中では「自」が一番大切なことはいうまでもないが、だからこそ今、「公」や「共」が問題だと認識しなければならないと思われる。

小さな社会では「自」と「公共」という二つの言葉で物事を律していくことができたとしても、現代のこの大きな社会ではそのようにはいかない。やむを得ず、「公共」を純粋な「公」と、その「公」と「自」の間にあるべき「共」に分けたのではなかろうか。であるから、「公」と「自」では足りぬところを「共」で補うということが必要であり大事と思われる。ただ、「公」と「自」はなんとか区別できても「自」と「共」、「共」と「公」は区別し難いので、「公」・「共」・「自」の区別をその時代に合わせて明確に定めて行動することが、いま、政治家だけでなく全ての日本人に要求されている。

その観点からいうと、国内問題ではむろんのこと、国際問題についても「公」の論理を原則とすべきであり、「共」はあくまでも「公」の論理の中での活用に止めておくのがよいと思料する。而して、米国一辺倒とかアジア一辺倒といった政策があり得ないことは当然なものの、とは言え、無指向性の等距離外交とか国連中心などいう非現実的な政策もあり得ない。ここはやはり、米国を中心とする友好自由主義国グループの一員となり、為すべきことを為し、言うべきことを言い、国連をも活用して、互いに共有する論理の「公」の部分を発展させていかねばならないと思われる。

これが私の結論である。

(平成29年11月24日)

 

「逆説の軍事論」引用

「防衛学研究(第25号)」引用