[第2回国防講座]
個人と国家と世界 ~独立(自由)と平和(秩序)~
冨澤 暉 氏(東洋学園大学名誉教授、元陸上幕僚長)

 1.個人の「自由と平和」を守るために国家(社会秩序)が存在する

人間(個人)は誰でも、他人から支配されることを好まず、「独立」して「自由」に自ら発展することを望む。しかし、そういう人ばかりが集まり競争社会をつくると、必ず争いが起きて互いに不幸なことになる。そこで人間は、その形づくる社会に、適切な「秩序(法律、規則、道徳など)」をつくり、その範囲内での争いの少ない「平和」な生活を営もうとする。

この秩序を支えるものとして、構成員を納得させることのできる「論理と権威」と構成員に強制する「力」の二つが必要である。論理と権威には、各社会(国家)の歴史・文化に根ざしたものがあり、一般に西欧発の形式をとりながらも、実は千差万別である。

力を通常「公権力」というが、この公権力は強くなり過ぎると、社会構成員たる個人の「自由・独立」を制限するものとなり易い。それゆえ、各国内の「秩序・平和」と個人の「自由・独立・発展」とは二律背反の関係にあり、定まりにくく常に変化している。

国家と世界の関係も、概ね上記と同様に発展してきたものだが、国内秩序のような「権威」と「力」はいまだ形成・確立されていない。それゆえ、世界の「秩序・平和」と各国の「自由・独立・発展」は「個人と国家」の問題よりも未成熟であり、より不安定といえる。国際秩序を維持するための「力」とは、約100年前までは「軍事力」のことであった。現代ではそれに代わる「経済力」、「文化力」が脚光を浴びているが、「軍事力」の重要性も不変である。

 

社会契約説の創始者といわれる英国のトマス・ホッブズは、宗教から分離した「個人の自由」を十分に認めたうえで、「そのように自由な個人を自然状態のままにおいておくと、万人が万人の敵となり殺し合いをして、結局は個人がいなくなってしまうから、力に支えられた社会秩序が必要である。それが国王の権力によってもたらされる」と言った。しかし彼は、その国王の権力はいずれ化け物のように巨大になり、それはまた「個人の自由」を侵すものになることも的確に指摘していた。

その国王の権力、即ち公権力のあり方をめぐり、ジョン・ロック、ジャン・ジャック・ルソー、シャルル・ド・モンテスキューらが社会契約説を発展させ、カール・マルクスの平等主義を加えて現代の社会が成立している、と今の高校教科書は教えている。その系列の中で一番古いホッブズの「力による秩序維持」はやや時代遅れではないかという理解が一般的だが、藤原正彦は「ホッブズこそが本質をついており、我われはここに戻らなければならない」と言っている。

人間というものは規律なしには生きていけないものであり、その規律を衆愚がその都度つくる現代民主主義では、人間社会は治まらないということなのであろうか。

 

2.安全保障とは何か

「広辞苑」で調べると、「安全保障」という言葉には、「外部からの侵略に対して国家及び国民の安全を確保すること」と「各国別の施策、友好国同士の連盟、国際機構による集団安全保障」という二つの意味がある。また、「防衛」には、ただ「防ぎ守ること」とだけ書いてあり、「外敵の侵略に対して国家を防衛すること」という意味は「国防」という言葉に付けられている。

これらからすると、「安全保障」も「防衛・国防」も元は同じ意味だったようだが、次第に一国の防衛ではなく、国家間の政治・外交をも含んだものを「安全保障」というようになったらしい。世界の広がりに伴って生まれた概念ともいえる。

日本では「安全保障」、「防衛」、「国防」などというそれぞれ違った言葉の意味を概ね同じものと考えて区別せずに使用している。しかし、現代の安全保障にあって、国際政治(外交)、経済、環境などの各種手段の重要性が増してきたため、逆に「防衛」を軍事の意味に特化する傾向も生まれつつある。いずれにしても我われは今なお安全保障の最重要部分を占める「防衛(軍事)」の意義を理解し、安全保障の中の「防衛(軍事)」を語っていかなければならない。

 

では、「安全保障とは何か」ということになるが、結局は国や個人が安心して心配せずに過ごせるためということになる。そして、人により、国より心配の対象は異なってくるが、世界では「軍事力を全く無視する」という人は極めて少ない。

安全保障を考える場合のキーワードはいうまでもなく、「価値」と「脅威」であり、安全保障のための政策とは、それらをどう考え、どう扱うかということになる。アーノルド・ウォルファーズの「獲得した価値に対する脅威の不在」の言葉から簡単な分析をすると、安全保障(防衛)の手段には次のようなものが考えられる。

第一は「失って困るような価値を最初からもたない」という手段である。それは、「失うものなき世捨て人には何の不安もない」ということである。確かに価値を保有しなければ安心ではある。しかし、もしもホームレスになったとて、最近は面白がって「オヤジ狩り」をする不良少年がたくさんいるようだから、この方法が本当に有効であるかどうかは分からない。

第二は「脅威(敵)をなくす、またはその敵の力・意思を弱める」という手段である。古来の主として軍事力使用による手段である。最近ではその「力の行使」よりも「力の存在」による敵の阻止・制御に重点が移っており、さらに心理作戦を併用した敵弱体化工作が効果的だとも言われている。

第三は「被害を蒙っても、その被害を最小限に食い止め、更に回復するための準備をしておく」という手段である。このため、価値を一カ所に集中させず分散させておき、損害を分散させるということや、予備を保有して戦闘力の持続を図るといったことが行われる。一般社会で多用されている保険制度もこの一種である。

第四は「脅威(敵)をつくらない。或いは敵を味方にする」という手段である。これにはいろいろな方法があり、例えば「非武装中立」、「文化交流・ODA(政府開発援助)の活用」、「同盟・連合」などという政策も理論上はこの分野に属する。

 

3.国家の安全保障 ~国家とは何か 国家にとって大切なものは~

漢字の國という字は城壁(口)の内側に武力(戈 ほこ)による秩序が保たれていることだといわれている。今から100年ほど前に、この漢字の意味と全く同じことをマックス・ウェーバーが「国家の定義」として言っているのは面白いことである。即ち「ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体」ということだから、多分、その物理的暴力行使が独占できる状態にしておくことが国家防衛ということになるのかな、とも考える。

ただ、これらの「国家の安全保障論」はあまりにも力の分野に偏っていて、ちょっと古い考えではないかという意見もあろうかと思う。高坂正尭は「国家は力の体系であり、利益の体系であり、そして価値の体系である」と言っている。新しい国際情勢を考えるときには、このような考えをも含んで見ていかねばならないのであろう。

また、高校の社会教科書には「夜警国家から福祉国家へ」という言葉が書かれている。19世紀までの国家はすべからくマックス・ウェーバーのいうような「国防を基本とする国家」であったが、その国家防衛を専ら務めたビスマルクが「国民福祉の必要性」を提唱し、日本帝国陸軍が銃後を保護するために昭和13年に「厚生省」を発足させ、バトル・オブ・ブリテンで苦闘したチャーチルが大戦後「ゆりかごから墓場まで」政策の発想者となった。いずれも戦争の惨禍を受けた国民の福祉厚生を図り、国力を維持・回復するためのものであった。

 

第2次大戦後、この「福祉政策」が各国において発展し、米一極平和や米ソ二極平和のおかげを蒙って「夜警国家から福祉国家へ」という言葉が世界に広まった。しかし、この「福祉国家」が行き過ぎて「英国病」が重篤となり、「福祉国家スウェーデン」からテニス選手として巨万の富を築いたビヨルン・ボルグが「無税国家モナコ」に移り住む頃になると、この「福祉国家」を再び「夜警国家」に戻そうとの動きが始まった。

英国の「鉄の女」サッチャーは「小さな政府」を目指し「福祉」を切り下げ、一方、アルゼンチン沖の孤島「フォークランド」へ病院船クイーンエリザベス号を含む艦隊に、ヘリコプターパイロットたる王子を乗せて出撃させた。また、米国のレーガン大統領は大増税をしつつ一方で大軍備拡張をするという、現在でも毀誉褒貶の多い「レーガノミックス」を断行した。

 

日本ではそれらの世界の動きに全く反応せず、「福祉国家づくりのための大きな政府」を維持しつづけてきたが、バブルがはじけると同時に、ようやく「小さな政府」を遅まきながらも主張する政治家・学者達が現われた。しかし「福祉は小さくして」も「夜警国家に戻ろう」という声は全く出ず、高校教科書の「夜警国家」から「福祉国家へ」という表現は50年このかた、全く書き換えられていない。

しかしまた、つい最近「大きな政府」、「大きな福祉」への要求が高まってきた。このように「国の防衛」と「福祉国家追求」との均衡は、いろいろな、時代の流れに応じたものであるが故に、歴史を踏まえ中長期戦略としてしっかりと定めていかねばならないのであろう。いずれにせよ、「国家とは何か」、「国家にとって大切なものは何か」、「防衛と福祉とのバランスは」などを真剣に考え直すべき時代である。

 

4.独立(自由)と平和(秩序)は両立できるか

「独立」は日本国憲法にない言葉である。30年ほど前のことだったと思うが、森嶋通夫は「不幸にして最悪の事態が起きれば白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を迎えるより他ない。ソ連の支配下でも私たちさえしっかりしていれば、日本に適合した社会主義経済を建設することは可能である」と言った。

奴隷の買主は金(かね)で奴隷を買った以上、簡単に奴隷を殺したりはしない。逆に「殺されない」という範囲において奴隷は平和である。しかし、奴隷には「個人の自由」即ち「個人の独立」はない。「防衛」というと「戦争がないこと」即ち「平和」であることだけを言う人が日本には多いが、「平和と独立が両立してこそ防衛が成立する」ということをまず理解する必要がある。

 

憲法に「独立」という文字はないが、自衛隊法には「平和と独立」という言葉が書いてある。

即ち「独立(自由)」と平和(秩序)の問題とは、

個人の自由・独立と社会・国家の秩序との均衡、各国の自由・独立と世界の秩序との均衡のことであり、

従って平和と独立とは、

個人が社会国家・秩序と如何に調和して自由に、独自に生活していくか、各国が世界秩序と如何に調和して独立した国家運営をしていくかという問題に他ならない。

 

5.「国家の特質」をみんなで考察してみよう あなたはどのように考えますか

(1)日本という国家の特質

・日本は民族国家(Nation State)である。 → YES。

・日本は「万世一系の天皇のお治め給う和の国」である。 → YES、BUT。

・日本人はしたたかで、その柔軟性によって生き延びてきた(司馬史観)。 → ?

 

(2)アメリカという国家の特質

・アメリカは民族国家ではない。 → NO。

・アメリカはアングロサクソンとユダヤ人の支配する国家である。 → NO。

・アメリカは「新世界」である。 → YES。

・アメリカは他国よりしたたかで柔軟性に富む。 → YES。

 

(3)中国という国家の特質

・中国は民族国家である。 → YES。

・中国は民族としての連帯感がない。 → NO。

・中国は「新世界」に向かう。 → YES。

・「Anglo-Chinese」、アメリカと中国は共存していく。 → ?

(平成29年10月27日)

 

「逆説の軍事論」引用

「国際政治経済を学ぶ」引用