これからの世界・日本のための「コモンセンス」
冨澤 暉 氏(東洋学園大学名誉教授、元陸上幕僚長)

①「国家間決戦」は消滅した

毎年8月になるとテレビ・新聞は「あの戦争を二度と繰り返すな」という話で盛り上がる。「あの戦争」とは1945年に終了した日本と連合国との戦争のことだが、筆者はその戦争が再び生起することなどあり得ないと考えている。

ナポレオン戦争以降「あの戦争」が終わるまでの約150年間はクラウゼウィッツのいう「絶対的戦争」の時代であり、そこでは多く敵国の首都まで進撃し、敵国土を我が物にするか、賠償をとり二度と刃向わないと約束させる方法で戦争を終結させた。それを「国家間決戦」というのだが、第二次世界大戦終結以降その「国家間決戦」は世界から消えてしまった。

その消滅は「核兵器」と「超大国」の出現によってもたらされた。「核兵器」を二国以上が持つと、そのうちの二国同士は「共倒れ」になるため「国家間決戦」ができなくなった。

「核兵器」を持たない国同士が「国家間決戦」をすることはあり得るが、彼らに影響力を持つ「超大国」がそれに干渉するためそれも出来なくなる。朝鮮戦争・ベトナム戦争・中東戦争等という戦争もあったが、それらは米・ソ二大国のコントロール下の局地戦、代理戦、制限戦であり世界大戦とはならず、核兵器は決して使われなかった。

ソ連崩壊までの世界は米ソ二極による冷たい平和の時代であったと言える。この時代の戦死者の数は20世紀前半の3分の1程に減じた。1991年のソ連崩壊以降は超大国が米国のみとなり世界秩序はより安定的なものになった。当然戦死者数も更に少なくなった。

この一極秩序が緩み再び二極或いは多極・無極に変化に戻るのではないかというのが現世界秩序(平和)維持上の問題点である。

二極になれば米ソ対立に代わる米中対立となり、それなりの秩序が保たれるだろうが、両極のコントロール下での局地・代理・制限戦争はあり得る。ただ、それは世界戦争にはならず、核戦争にもならない。

②多極・無極化だけは防がねばならない

多極・無極になることは第2次世界大戦前夜に戻ることであり、極めて恐ろしい。しかし、米・中が、それぞれ厳しい国内問題を抱えつつも、人口、経済、軍事において隔絶した力を保有し続け共存できれば、この米・中2極秩序はまだまだ安定しており、世界がこれを飛び越えて一挙に多極・無極化することはない。

ただ、多極化の兆しがないわけではない。これまでの一(二)極秩序には耐えられないと考える比較的小さな国家や民族やグループが世界にはあり、その幾つかが ①核兵器拡散、と ②大国に非対称な軍事力、をもって世界秩序(平和)を擾乱しようとしている。

これらの擾乱を放置しておくと、世界秩序(平和)が乱され、一(二)極から多(無)極世界への変換に繋がる。

これを懼れた米国や日本は戦略上の脅威(または問題点)を ①核兵器の拡散 と ②テロ・ゲリラ, の二点に絞って対応してきた。それは基本的に他の先進国も同じであり、特に核保有国は「核拡散」と非対称脅威である「テロ・ゲリラ」に着目して軍事的・外交的対策を立てており、その点では一致協力している。

ただし、ウクライナのロシアとの角逐、イギリスのEUからの離脱、トランプ大統領のアメリカ・ファースト問題、中国の共産党内権力闘争等々各国内に起因する問題がそれぞれに厳しくなると、これに関連して世界先進国の足並みが乱れる難しい時代になった。

何れにせよ、世界に大変革を起こそうとすることは現秩序(平和)を壊すことであり、波風立たせずに秩序(平和)を維持しようとすることは、米・中・ロといったリーダー達の身勝手さをある程度許すことである。その他の各国は自らの「平和と独立」をこの世界の中で確立して行かなければならないが、平和と独立は元々矛盾するもので100%の平和を求めれば独立は制限せざるを得ず、100%の独立を得んとすれば平和を譲らざるを得ないのである。それを判断するのは「軍事を背景とする外交」と「民意を背景とする内政」の均衡をとる政治の仕事である。何れにせよ「軍事」や「民意」を無視した政治は成り立たない。

現在の日本はこの主題に直面しており、国民の意見はなお一致していないかに見える。ともかく時代は変わっており「あの戦争」に一挙に戻ることはあり得ない。それよりもこの時代に適した最良の道は何かと冷静に判断すべき秋(とき)である。それを判断するのは外務省でも防衛省でもなく、日本の主権者である国民一人一人であり、その結果は一人一人の責任だと承知して欲しい。

 

③一国平和主義は世界に通用しない

「あの戦争」の頃までは「外交の及ばざるところを軍事で解決する」ということが多かったが、現代は「軍事を背景とした外交」により世界秩序(平和)を維持し、その秩序(平和)の中で互いの平和を確保するという時代になった。

だが日本だけは「あの戦争」以前と変わらず、戦後も「一国平和主義」を貫いてきた。「世界は平和でなくとも、日本だけが平和であれば良い」という考え方である。左翼の人々は「軍事力さえ持たなければ日本は平和であり、日本が平和であればそれで良い」と考え、右翼の多くは「ともかく世界一の米国に頼っていれば日本は平和である。自衛隊の力は米国の許す範囲の最小限で良い」と考えた。

1990年8月にイラクがクウェートに侵攻した際、ブッシュ(父)大統領が米国中心の有志連合軍を準備したが、そのブッシュ自身の外交努力によって国連安保理の武力行使決議がなされ、有志連合軍が国連認可の多国籍軍となった。そしてこの軍が91年1月に攻撃を開始し2月末にはクウェートを奪回した。

この攻撃に際し日本でもこの多国籍軍に自衛隊を参加させるかどうかで議論があった。海部総理や小沢自民党幹事長は行くべきだと主張したが、自民党の梶山静六氏や野中広務氏が反対して多国籍軍参加は見送られた。田原総一朗氏が梶山・野中両氏に聞いたところ「日本は平和国家だから集団的自衛権の行使をせず、また自衛隊の海外派兵はしないのだ」と言ったという。両氏は、多国籍軍参加は集団的自衛権行使だと考えていたらしい。また、この多国籍軍参加に代えて、橋本龍太郎大蔵大臣が130億ドル(日本円にして1兆7000億円)の金を出したのだが、社会党委員長の土井たか子氏は「お金なら良いからもっと出しなさい」と言い、同党の村山富市氏は「自衛隊を出したって金を出したって、それは同じことだろう」と言ったという。梶山・野中・土井各氏は「日本人に戦死者を出さないことが日本の平和なのだ」という「一国平和主義者」であった。

 

④集団的自衛ではなく集団安全保障を

湾岸戦争終了後、クウェート政府が米国有力紙に30か国の国名を記した感謝広告を出したが、その中に日本の名がなく、当時の政治家たちにトラウマ(心的外傷)を残したと言われている。が、それから四半世紀を経て、現在なお集団安全保障措置と集団的自衛権の違いを説明できる政治家が殆どいない。世界(日本)の平和にとって洵に残念である。

集団安全保障における集団的措置というものは ①先ず話し合い ②経済制裁等非軍事的措置をとり ③やむを得ざる場合は軍事的措置をとる という一連の行動を総称するものであり、集団安全保障=武力行使というものではない。それ故、軍事が外交の背景として機能すべき現代において、最も重視されるべき手段なのである。

自衛隊が出来て約60年、日本では個別的自衛権だけが許されていたが、2年前から「限定的集団的自衛権」も認められるようになった。この間、集団安全保障という言葉は使用されたこともなく、国連軍参加については連載(2)に掲載した通りの内閣法制局長官解釈が出されているだけである。この「国連軍として海外で武力行使することは(集団的自衛権行使と同様)我が国を防衛するための必要最小限の範囲をこえるので憲法上許されない」とする解釈は本末を転倒した明らかな間違いである。

自衛権行使は集団安全保障が機能しない場面でのみ認められる現状の回復を限度とする反撃であり、だからこそ行使してもしなくても良い権利に過ぎない。これに反し集団安全保障措置における武力行使参加は「話し合い」「経済制裁」をより有効にするため、限度のない過酷な行動であり,それ故にオブリゲーション(罰則のない義務)となっているのである。

集団安全保障の話をすると「それは国連軍のことだろう、そんなものは見たこともない」という人がいるが、湾岸戦争時やイラク復興時の、安保理決議に基づく多国籍軍の行動は完全な集団安全保障措置であり、これら多国籍軍の前身が多く有志連合軍であったことからすると有志連合軍の行動もまた立派な集団安全保障措置である。

集団的自衛権行使を各国に要請した被侵略国がないかぎり、少なくとも「有志連合軍は集団的自衛権行使を束ねたものだ」とは言えない。PKOや人道支援のため部隊を外地に派遣することも、国連軍地位協定に基づき朝鮮戦争参加各国軍に日本国内基地の使用を認めていることも、6か国協議に参加することも、全て集団安全保障措置であり、自衛権とは無関係である。

 

⑤日米安保条約とは何か

「日米安保条約によって米軍が日本を守っている」という表現は間違いである。米国は無論「日本領域において武力攻撃があった時には共同防衛をする」と約束しているが、あくまでも「米国中心の世界(アジア)秩序を守るため、安保条約に基づく在日米軍基地を利用している」のである。

日本が米国だけを頼りにしているのとは違って、米国は自力を信じ、他国の軍事力はさほど期待していない。しかし、政治外交力としてのショウ・ザ・フラッグには期待しており、そこでは小さくともより沢山の旗を要求している。日本では「日米安保さえあれば」という意見が多いが、米国にとっては「米日」・「米韓」・「米豪」・「米印」・「米越」さらには「米中」までもが欲しいのである。つまり米国は他国からの集団的自衛など期待しておらず、それ故、NATO条約でも日米安保条約でも、国連憲章51条引用に当たっては「集団的自衛権」という言葉を用いながらも、その行動としては「集団的自衛」という言葉を使用せず「集団防衛」または「共同防衛」という言葉を使用するのである。その「集団防衛」「共同防衛」の集合が「有志連合軍」だと考えるならば、米国は「米国の自衛を助ける集団的自衛権行使」を求めているのではなく、あくまでも「米国中心の集団安全保障体制」への参加を他国に求めているのだと理解できる。そしてその要求に応えることが世界(アジア)秩序(平和)を安定させ、翻って日本の平和に資するのだと理解すべきである。

 

⑥軍事上の諸問題…日本の現状

かつての朝鮮戦争は未だ終結しておらず、1953年以降今なお休戦中である。1991年に北朝鮮と韓国の同時国連加盟が国連で認められて以降、北朝鮮は何度となく安保理に対して講和と国連軍司令部の解体を要求するのだが、これは認められていない。

北朝鮮がその過大な軍備を削減しないかぎり安保理事国の多くはそれに応じないのである。そして現在、国連は北朝鮮の核ミサイル開発を非難しこれに経済制裁を科している。この経済制裁が真に効果を表し始めた時が最も危険である。本当に世界に孤立したと感じた時の独裁者の行動は何よりも恐ろしい。

北朝鮮の最終目標が自ら主導する朝鮮半島統一であるかぎり、彼らが韓国に先制核ミサイル攻撃をすることはない。無論、米・中・ロの核保有大国にそれをする筈もない。それをやれば翌日に平壌が壊滅するからである。

唯一、日本攻撃だけが可能性を持つ。無論、米国の核の傘に穴があいていないか、という難しい条件如何なのだが、その解釈についての北・日・米間の認識の相違が危機をもたらすであろう。日本の軍事力が独力でこの日本攻撃を阻止することは出来ず、反撃力によってこれを抑止することも出来ない。

こうした事態発生に伴って「テロ・ゲリラ攻撃」があることも覚悟しなければならない。北朝鮮にはテロ・ゲリラに使用できる十数万もの特殊部隊員がいるが、そのほんの一部と、予め日本に潜入させている在日民間人等を使用して原子力発電所や新幹線や通信中枢等を攻撃された場合、脆弱な日本は甚大な被害を受けるものと予測される。

中国は今や自らを大国と自認し米国とのG-2関係を目指しているので、日本を武力攻撃して何者かを奪取するということはしない。中国は自ら今は三戦(心理戦、広報宣伝戦、法戦)の時代と言っている。彼らはこの三戦によって既に日本の「弱体化工作」を進めておりその矛先を「沖縄独立運動」に向けている。沖縄に米軍が居座るかぎり誰もこれを力で追い出すことはできないし、また、現在の沖縄県民の殆どが「独立」を望んでいないので、結局「沖縄独立」は実現しないだろうが、それだけにこの工作(運動)は日本を弱体化させる。 尖閣諸島は軍事問題にせず既成事実を確保することが大事である。軍事問題になった場合には戦わざるを得ないが日中両国とも同島奪取(奪回)はできても同島確保はできない。両軍とも航空優勢(制空権)の常時確保ができないためである。となると永遠に奪回作戦を繰り返さなければならないので互いに無駄なことになる。

ロシアは旧ソ連圏内の国々との関係で忙しく、人口も減少し、経済的にも苦境にあるので軍事的に日本に影響を及ぼすことはないであろう。核弾頭数では世界1~2の国とされているので、米中の間にあってその実力をひけらかし、政治外交力とすることはあろう。北方4島を無償で返納せよといえば、「沖縄と同様、日本の金でロシア軍の基地をつくれ」と言いかねない国である。

米国は日本に基地を置くかぎりその基地を守る必要がある。その意味で日本防衛に極めて有用である。しかし、その拡大抑止の効果は東アジア諸国と米国との関係によって変化する可能性があるので、日米関係だけを見るのでなく、米国を中心としたより良い国際関係を築いていく必要がある。

 

⑦日本の備えをどうするのか

北朝鮮の軍事的脅威に対し日本の軍事力で対応することは、既に遅きに失したと言ってよい。ミサイル防衛は不十分なので国防議員たちが非核敵基地攻撃能力を模索しているが、現米軍ですら手をこまねいていることを日本がやろうとしても無理である。となれば先ずは米国の核の傘の信憑性を高めるための外交力に頼るしかない。それを高めるためには米国を中心とするアジア諸国との意見交換と、外交のみならず政治・経済・軍事の専門家による幅広い検討が必要である。

テロ・ゲリラに対しては警察が一義的に対応し、それで不十分な場合には陸上自衛隊が警職法活用の治安行動で応援することになっているが、それでは極めて不十分である。

人口が日本の10倍である中国には軍隊220万人の他に150万人の武装警察と800万人の民兵がいる。日本の自衛隊員数は22万だから平仄があっているが、15万人の武装警官と80万人の民兵を創設しないと全体の平仄が合わない。その備えができた時に初めてテロ・ゲリラ対策が出来るのだと承知して欲しい。

中長期的に考えれば、ミサイル防衛や敵基地攻撃能力、更にはサイバー・宇宙戦能力を高める必要がある。しかし、危機感を持たない国民の中からそういう要求は発生しない。

そのためにも全国土シェルター化の政策が必要である。個人用でも公共用でも良いので、国民一人一人が2週間は生き延びることができるという地下空間を作って年に数回防空訓練をするようになれば、国民がそうした防衛力強化を自ら要求するようになる筈である。米・中をはじめ多くの国々で既にやっていることなので、民兵問題とともに総務省、各自治体が事業推進者となって進めて欲しい。

中国の三戦に対応できる軍事力はない。三戦には三戦で対応するしかなく今の日本では国家安全保障局にでもお願いするしかない。そこにはサイバー・宇宙・情報の専門家も含め、必要ならば外国人も雇い、金をかけて強力なものにして欲しい。

尖閣対策として現在努力している空自の航空優勢獲得・海自の潜水艦強化・陸自の一部海兵隊化、南西諸島への配置、等の政策は継続・強化すべきだが、先述の通り、海上保安庁も含み、警察の武装警察化による領域警備力強化が何よりも大事である。

 

⑧最後に憲法関連のこと

憲法改正は難しいと承知しているが、集団安全保障における武力行使は憲法98条2項(条約及び国際法規の順守)を用いた憲法新解釈で可能になるので検討して欲しい。

また、自衛隊という名称は元々憲法にないものだから、これを変えて欲しい。多国籍軍でもPKOでも武力行使が必要な時代に、自衛のためだけの防衛組織というものは世界にあり得ない。ともかく「自=Self」という言葉だけは外して欲しい。それは一国平和主義を表すからである。

「軍」という表現がどうしてもだめなら「隊」でも良い。「日本防衛隊=Japan Defense

Force」はどうであろうか。(平成29年9月29日)

新潮社Foresight(フォーサイト)引用